つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

TED動画から・・・安心感

宗教の違いをどうつきあうか。など

日常にも応用できるわかりやすいお話です。

 

そもそも宗教とは ⇒ すばり『安心感を与える』

まさにそのように最近は特に思います。

人というのは、安心した感覚や安らぎの感覚といったものがあると

特別なことをしなくても、自発的に勝手にのびていくものだと思います。

 

宗教に限らず

人に安心感を与えてくれる存在というのは、とっても大事に思えます。

 

まず、自分にとって安心感というものがどういったものなのか

また

安心感を感じるには

といったことを

チェックしたり問うてみることが始まりかもしれません。

 


 

自分にとって安心感を与えてくれるものは、人それぞれ違い

その時々でも違います。

 

 

安心感というのは、目にみえないものです。

いくら目の前にあっても

感じられていないと、ないのと同じことになります。

 

そういった感覚を感じとったり、育てることに於いては坐禅や瞑想はもってこいです。

 

また、

思考とは、もっとも離れたところが感覚です。

考え事をしていたら、もし特別に美味しい食事をしたとしても

味(味覚)がよくわからないです。

はたまた、彩り(視覚)や食感(触覚)や香り(嗅覚)や

シズル感。

そのときに感じられる周りの音の景色や

味わったときの感覚など・・・。

こういったことがスルーされてしまいます。

 

なにか食事する折には、ただ食事する。

     ↓ ↓

考えることなく、食事をしている感覚を味わう。

 

これは坐って行う坐禅ではないですが、

意識して行うならば、坐禅と呼べるものです。

 

 

安心感は

こちらのブログに日常的に書いたりしている、心地よさというものに通じてきます。

心地よさというのもその人、そのときどきによって違います。

ある時には、静けさだったり

広がった感じだったり

清々しさだったり

ことばにするのがためらうような

ちょっとした心地いい感覚が、心地よさです。

 

電車に乗っていても、

外を歩いているときにも

人と会話しているときにでも

なにかテレビをみていても

音楽を聴いているときにとか

何気なく、ふっと感じられる普段着の顔をしています。

これも坐禅の仲間です。

よそ行きではないないフツウですが

このプチ坐禅を見くびるなかれ。です。

日常の生活に、ちょこちょこ挟んでいくと

なーんと、

大きな変化が感じられたりすることもあるんです。

 

 

 

・・・今日はツラツラと出任せの気楽なブログ文でした。