つながる 海と空と***いちご一恵

思う通りならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来の感覚はただ在ります。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家してみたいと思っていた風変わり女子のエッセイブログです。

*毒も概念のひとつ

しあわせの隠れ場所 [DVD]」は2009年11月初公開で

とある黒人少年の実話に基づいた物語。

 

映画が好印象で記憶にのこったシーンがあったので

すぐさま絵本を購入しました。

初めて読んだとき、

「人の個性は違っていていいんだよねー」と思いました。

 

はなのすきなうし (岩波の子どもの本 (11))

 

金子みすゞの詩「わたしと小鳥と鈴と」のような思いです。 

 

 

この絵本を数年経って読みかえしてみたら

人はみなそれぞれ個性があるから違うのがあたりまえ。

自分と他人は違っていいはずなのに、

毒親やまわりから違いを認められなかったことで

自我の「わたし」が苦しいと感じていたのだなぁ~、

と思い出しました。

 

なんでこんな話になるのか、よくわかりませんが

今回だけとくべつってことで、ちょっとだけ。

 

偏見によるダメ出しや高慢なクレームのような批判、

狭い価値観にはめたがる過干渉が

息苦しくて、と~っても窮屈でした。

また、使われる文章の文型はほぼ2種類のみ。

命令形と否定形、たまに皮肉たっぷりのほめごろし。(笑)

自分というものが消えてなくなってしまいたい、

なんてよく思っていました。

ほんとに辛かったんですね。

大人になっても変わらない、まわりの期待と重圧もハードでした。

いまはもう忘れてしまって覚えてなかったりします。

 

ただ、忘れるということは実体がないということ。

記憶としてあるだけ。

実体のないものについて

ストーリー化してさもあるかのように作り上げていくと

迷いや苦しみにつながっていきます。

 


欲求というのは生きていく上で自然にありますが、

欲求や欲望にいい悪いはありません。

感情にもいい悪いはありません。

そして思考にもいい悪いはありません。

欲望や感情、思考にいい悪いをつけると途端に相対になります。

また、それらを自分のものとすることから苦しみます。

 

愛の意味がキリスト教の愛と仏教の愛は違っていて

キリスト教だと無償の愛、

仏教の愛は渇愛です。

渇愛の意味は、

渇して水をほしがるように凡夫が五欲に愛着すること、

と辞書で説明されています。

渇愛は苦しみのもとですよ、と教えています。

欲求が強かったり多いと迷いや苦しみが多くなってしまいます。

自我は、つい捉われて彷徨い苦しみます。

自我は足りないという不満足や渇望感を

無意識にいつもつくりあげて

それを燃料にしているところがあります。

それが何かの折にぷわっと出てきて、

「求める→得られない→苦しむ」となります。

  

ただそのことに自覚している。

自我の「わたし」の行為に

否定することも肯定することもなく。

 

そうしていると、だんだんと

ふと、少し風が吹いて、

ふと、少しの間ができて、

ほんのすこし、ほんのちょっとだけ軽くなります。

するとすこし離れることができます。

すこし別の視点からみていると感じられたりします。

 

 

自我はわざわざ渇望感や不満足さを

大事にしているところがあります。

不満足さを埋めて幸せになりたいのですが

禅はちがうところです。

列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。

列車に乗ってまでも、

自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。

荷物をおろして安心しなさい。  

 

不満足さがないところには、穏やかな心地よい感覚があります。 

心地よい感覚がいずれは

渇望やら欲望がかなったときのしあわせ感とは、

比べようがないしあわせ~な感覚になったりします。

つまり考えることをしていないとき、左脳が働いていないときです。

左脳がお休みすると自然に右脳が活発になります。

左脳は考えることはできても感じることができない領域です。

右脳は感じる領域なので、しあわせ感がいつもあります。

眠る前に考え事をしていたら眠りにつくことができないですが

なんにもしなければそのまま眠りに入ります。

熟睡のときは、なんにも所有していないのに、しあわせです。

ということは、本来は所有のあるなしによって、

ものごとの状況うんぬんによって

幸せとかそうでないとは決められないということです。

 

 

映画に話が戻ると、反応して怒りが出たときの対処法として

映画の少年は怒って反応して暴力を起こすことがないように

怖い時には目を瞑って3秒数えると教えられました。

 

少し間をおいて対応すると

まわりを巻き込んだトラブルが避けられるかもしれません。

 

もしトラブルが起こってしまったら、

そうなるようになっていたこと。

起こったことは、起こるようになっていただけ。

そこに思考をはさむと苦しみの世界へ続きます。

起こったこと、気に入らないこと、大変なこと、

絶望としても必ず「これもまた過ぎ去る」です。

過ぎ去って、また違うものがやってくる、そのくり返しです。

ただ起こっただけ。

もし変えたいと思ったら変えてもOK。

変えれらなければそれも決まっていたこと。

過ぎ去ってしまう実体のないことに

捉われると苦しんでしまいます。

もし苦しんでも、ダメでも、それもOKとなればどうでしょうか。

その先は続きようがありませんね。

   

相対のなかでの生き辛い苦しみから、絶対なるところへ。

皮肉なことにというか、おもしろいことに

苦しみは絶対なるところへ通ずるトリガー(きっかけ)になる、

そういったことを

先人は本で述べている部分があります。読み知って

ああ、そうなんだよね~、そうそう。と

なにか救われたような

やっと真の思いを理解されたような気になりました。

  

苦しいだけじゃもったいない。

それをいかさなきゃ、というか

いかす選択もできるのだなぁ。いかすというより学んでいくかも。

苦しいとか、しあわせだわーも

まったく思い浮かばないようような

絶対のしあわせ感。それこそが本当の幸せ。

本にあったことは本当で、

先人の教え通りだったのだということが

もうありがたくて、うれしくて、しあわせで

みえない大いなるものがほんとうに実感となります。

 

苦しさや辛さがちょいちょいあったことが、

まるでナビの役目をしてくれて

本当の幸せってなんだろうな~、がいつもありました。

 

 

毒のはなしに戻りますが

毒は使い方でいかようにもできます。

酸っぱいレモンは蜂蜜に漬けて、さわやかなレモネードに。

苦いカンキツは、味わい深いマーマレードに。

渋い柿は吊るして風にさらすことで、味わい深いあまい柿に。

酸っぱい梅も、滋養たっぷりの梅干へ。

あれ、レモンとかぜんぶ毒じゃないですけど・・・

 

人生、毒があってイヤだな~と嘆かずに

いやいや、嘆いてもいいのです。問題ないのですが

毒があってもよかったと味わえるところや

見方もあるのだ、ということ。

そうなると、毒とはみれなくなります。

毒に対していいとか悪いと分けてみれなくなります。

 

毒というのもしょせん、

自我に付随するストーリーに登場するものの一つです。

概念のひとつ。

ムカつくこともあります。

ただ毒、だたそれだけ。

絶対の感覚は、

自我のできごと、感情、思考に関係なく、いつも在ります。

 

人生で起こったこと起こること

すべてがありのままでいてそのままでよいのだという

左脳ではなんとも理解しがたいところ。

融通無碍で大らかなところ、

それが本当の幸せだと思うところです。

 

禅は、穏やかな心地よさがあって、

まわりのこともイヤでなくて、

思うようにならずとも、そうなんだね~とラクであって。

イヤだな変わらないと思っていたものが

いつの間にか変化しています。

もしくは、気にならなくなります。

なるようになっているのだ、と心から思えます。

天才バカボンのセリフの如く「これでいいのだ~」。

 

変わらないものを変えたいと思うところ、

変わるものを変えたくないと思うところに

苦しさや辛さがあるのですが、

どちらでもOK。

あるがままでOK、となってしまいます。

 

苦しさもストーリーも実体なかったとわかります。

 

どちらにもこだわりがなく在ります。

これって最高の幸せだと思いませんか。

 

つながるんじゃなくて

元々つながっているのですから

ほんとは、つながる、というのはおかしいのです。

つながっているのを感じてみる、です。

 

 

 

ほんとの幸せとは、

左脳的には、感謝と少欲知足。

右脳的には、ただ感謝、足りるを感じてみる。

って感じです。 

 ちょっとでもOKと感じられたら、

それもいいんじゃないでしょうか。

だって、あるがままなんですから。

あるがまま以外は、なりようがないのに

 あるがままじゃダメといってるのが自我による思考です。

これじゃーダメ、イヤだといっている「わたし」「思考」は

どこにあるのでしょうか。

もしくは、ダメとしている思考はどこから出てくるのか、

それをみてみることです。