つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

こころの拠りどころ

なんとなく生きていくのが辛いといった時に、

こころの拠りどころとなるものさえあれば

どんなに快適に過ごせることかと思ってしまうものです。

 

振り返ってみると

そういったこころの拠りどころといったものを

探してみつけて、手に入れてみたけれども

しばらくすると、なんだか違っていたみたい。

といったことの、くり返しが

人生といったものの、くり返しや迷いの形だったと思います。

 

この世は常に変化するもので

確たるものを求めるということは、こころの苦しみや迷いにつながるということを

諸行無常」という教えで例え知ってはいても

やはり、求めてしまいます。

 

自我というのは、そんなものです。

そこで

求めない、ということが迷いを少なくしてくれますが

つい

求めてしまいますよね。

 

その自我のしていることを

観察・観照することで

捉われから離れていくことが起こります。

それが坐禅や、日常の中での行(ぎょう)と呼ばれるものです。

 

この世を例えてみると

ソーダ水みたいなもので

ソーダ水の中には泡がたくさんあります。

その生まれたり消えたりする泡。

それを求めたり得ても、いずれは失うことになります。

または違うものに変化していきます。

もったとしても失うという恐怖があります。

 

 

その泡の一つを自我だと思い込んでいるところがあって

立派な泡になるんだーとか

意気込んでみても、

確たる泡には、なれるはずがありません。

(立派だとか、偉いとか、ではなくて、いのちいっぱい生きる。

悩んだり、迷ったりしながら、いのちいっぱい生きているじゃないですか)

 

 

ソーダ水すべての存在が元来のわたしであって

自我であるソーダ水の中の泡を眺めているだけです。

でも相変わらず、ソーダの泡の自我はちゃんとあります。

その泡がいずれ消えたとしても

わたしというのは、ずっと存在します。

もっというと

ソーダ水の中の泡は、ソーダ水がなければ存在できないものですが

ソーダ水は、泡が消えても、最初からなくても存在したままです。

 

だから

こころの拠りどころといったものを

泡のどれかをみつけたり、輝いた泡を探しても

満足できなくて

永遠にみつけることができないです。

 

 

本当の幸せとは、

ものや人などの対象ではなくて

ソーダ水である、これは心地よい安らかな幸せな感覚のことです。

 

これこそが

本当に行き着くところの、こころの拠りどころです。

 

 

自我のほかに

欲望や思考もソーダ水の中の泡のようなものです。

その泡をみていると

いつの間にか消えてしまいます。

 

すると

ソーダ水という元々本来の存在がわかるのです。