つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*自我の「わたし」に入り込んでしまうと苦しみでしかない

この世では「わたし」なるものを抜きにして、
生きることはできません。

 

この自我の「わたし」があるという思い込みから、

さまざまな苦しみが生まれます。

ブログで少しだけ触れてみたいと思います。

 

いわゆる「わたし」という自我は、

悪いということもなければ、

よいということもありません。

 

ただ自我の「わたし」に入り込んでしまうと、

どうも行く先は苦しみでしかないようです。

もっとこうすればよかった・・

どうしてできなかったのか。

あの時にこうしなければよかった・・

どうして、できなかったのか。

もっとがんばってやればよかった・・

もっとやらなきゃ。

 

悲しいできごとがあった・・・

どうしてこんな出来事が起こったのか。

 

いろいろなことを自我の「わたし」は思い、

加えて、さらに思考をつなげていきます。

そして行動してみて

うまくいけばさらにもっと多くを望みますし

うまくいかなければ、

どうしてうまくいかないのか落ち込みます。

 

それがじつはすべて「迷い」につながっていきます。

迷いの行く末は苦しみです。

ただ苦しみが悪いわけでもなく、そこから学ぶ機会が生まれます。

 

また

もっとたくさんの財産や知人や知識を所有したい・・

もっと奮起しなくちゃというのは 

 自己所有という観念がベースになっており

それがまた苦しみとつながっていきます。

得れば得るほど、さらに欲望が大きくなり、

無意識に保持する衝動が起こり、執着しがちになります。

 

 

禅のことばに「本来無一物」というのがあります。

 

 禅語に親しむ

 

 こちらは三法印のひとつ「諸法無我」に通じてきます。

 

 

 自我の「わたし」の思うようにできなかったから

不幸せとか

もし、その通りになっていたら幸せなのにとか

その通りになれば幸せというのではない、ということに

少しでも気づくことがあれば

抜け出す余裕が生まれます。

 

起こったできごとは、

そうなるようになっていたから起こった。

ただ起こっただけ。

起こらなかったことは、

起こらないと決まっていたからならなかった。

ただ起こらなかっただけ。

という禅的な教えもすんなり理解できるかもしれません。

 

できない自分もOK、できる自分もOK。

やれない自分もOK、やれる自分もOK。

できなかった自分もOK、できた自分もOK。

 

自我の「わたし」からみたら、

できることとできないことは大きな違いですが

自我の「わたし」が含まれる大きな大きなところ、

もしくは

自我の「わたし」とは一切無縁の

大きなところからみたら差はないのです。

 

「わたし」のからだと心が、

自分のものであるという思い込みや

自我の「わたし」があるという思い込みによって

いいとか悪いという思いが生まれて行動を促しています。

 

だからといって「自我をなくそう」というのも自我のささやきであって

それも「迷い」につながります。

しかし、そうなってしまっても問題はありません。

自我の「わたし」とは

実体はなく確固たるものは存在しないのだけれども

まああってもよし、なくてもよし、という

自由な境地がラクなところです。

 

それはどういうことかというと

・・・

自我の「わたし」をみているであろうところを

感じてみることです。

そこは名前がついていないので

これだとはっきり説明できないのですが

例えるとしたら、

なにかをするでもなく、

なんとなく幸せとか安らぎや心地よさがある感覚です。

 

感じてみたからといって

すぐにはっきりと感じられない場合がほとんどです。

そして何年すぎても

はっきりと感じられないかもしれません。

それで充分です。

でも、なんとなーくとか

ほんの少しぐらいには感じられることと思います。

そのほんの少しが大事なのです。

そこでもっとたくさんとか

もっとはっきりとと奮起しないで

がんばらないことです。

がんばってしまうと、不思議とこの感覚は感じられないです。

日常のなかで、

がんばらないでちょっと感じてみる姿勢が大切です。

もしがんばっても問題はありません。

禅には問題という定義がありませんので、

問題とすることが問題かもしれません。

 

ほかのブログで、やり方などを紹介しています。

こちらの記事も

なにか迷いに入り込んでしまって苦しい方がおられたら

参考になるかもしれません。

 

 

うれしいことも、悲しいことも、辛いことも、苦しいことも

人生には色々と起こります。

それはそれとして大いに味わい、

人生の彩りのなかのひとつとして

嫌うこともなく、好きになることもなく

ただ来るものを味わって、ケロッとしていても

それはそれで

なんとも愛おしくも感じられたりします。

 

悲しいことは、悲しいままに

うれしいことは、うれしいままに。

いいことも、悪いことも

すべて永続しません、実体がありません。

晴れの日ばかりが続くことのないように

雨の日も雪の日も嵐の日も、くもりの日もあります。

でも、自我の「わたし」は自然の理に反して

晴れの日ばかり続くことを望んでいます。

よくよく冷静に考えるとムリがあります。(笑)

 

辛いこと、悲しいこと、苦しいことは

悠久のときの感覚からみると、まるで煙や泡のようなものです。

この肉体が生存していることもそう長くはないです。

 

つまり「諸行無常」です。

この「諸行無常」を達観視できるところが

こころ穏やかで安らぎがあって心地よいところです。

 

 

とりとめのない、整合性のない文章になってしまいましたが

感じてみることから、すべて始まっていきます。

 

もともとこの感覚は、

整合性をよしとする左脳では決して知ることができなくて

右脳でしか感覚できない領域なので、

ことばで理解できるところはほんの僅かに過ぎません。

 

迷いから覚めることが本来の元々あるところの本当の幸せです。

覚めているところはいつでも在ります。

 

思考だらけでも、ふと感じてみることを思い出すと

なにか新しい気づきが起こるものです。

それだけでも大きな一歩、

最初の一歩、完了の一歩なのだと思います。

  

さいごに、山田無文の「水の如くに」を含むことば。

 

 

 

  


Kiroro - 生きてこそ(MUSIC VIDEO)

 

辛いことがたくさんあるかもしれません。

悲しいこと、

理不尽でイヤになっちゃうようなこと、

それでも生きる。

生きることを選択すること。

ほんとうに、生きているだけですごいことです。

そして

いままで生きてこられたこと。

それは生かされていることだったと、

はじめて気づくかもしれません。

 

 


BEGIN with アホナスターズ/笑顔のまんま