読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

つながる 海と空と青

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところについて、思いついたまま描き記しています。元来の幸せ感を忘れているとわたし達は不安や不満になり迷い続けます。万人にもれなく備わっている本来の感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさがあるだけです。

自我に入り込んでしまうと苦しみでしかない

わたし達はこの世にいる上で自我というものを抜きにしては、
生きることはできません。

 

この自我というのがあるという思い込みから、様々な苦しみが生まれます。

このあたりのお話は、いろいろと説明が必要と思いますが・・

いまブログで少しお話できるところだけでも触れてみたいと思います。

 

自我というのがあって、

悪いということもなければ、よいということもありません。

 

ただ自我に入り込んでしまうと、行く先は苦しみでしかないです。

もっとこうすればよかった・・

どうしてできなかったのか。

あの時にこうしなければよかった・・

どうして、できなかったのか。

もっと頑張ればよかった・・

もっとやらなきゃ。

*もっとたくさんの財産や知人や知識を所有したい・・

もっと奮起しなくちゃ。*

悲しいできごとがあった・・・

どうしてこんなできごとが起こったのか。

いろいろなことを自我は思い、さらに思考をつなげていきます。

そして行動してみてうまくいけばさらにもっと多くを望みますし

うまくいかなければ、どうしてうまくいかないのか落ち込みます。

 

それがじつはすべて「迷い」につながっていきます。

迷いの行く末は苦しみです。

ただ苦しみが悪いわけでもなく、そこから学ぶ機会が生まれます。

 

 注釈*自己所有という観念がまた苦しみとつながっていきます。

 得れば得るほど、さらに欲望が大きくなり、

 無意識に保持する執着が起こりやすくなります。

 禅のことばに「本来無一物」というのがあります。

 

 禅語に親しむ

 

 こちらは三法印のひとつ「諸法無我」に通じてきます。

 

 

 

自我のいうようにできなかったから不幸せとか

もしその通りになっていたら幸せだったのにとか

その通りになれば幸せというのではないということに

少しでも気づくことがあれば

自我の世界から抜け出す余裕が生まれます。

 

起こったできごとは、そうなるようになっていたから起こった。

ただ起こっただけ。

起こらなかったことは、起こらないと決まっていたからならなかった。

ただ起こらなかっただけ。

という禅的な教えもすんなり理解できるかもしれません。

 

できない自分もOK、できる自分もOK。

やれない自分もOK、やれる自分もOK。

できなかった自分もOK、できた自分もOK。

 

自我からみたら、できることとできないことは大きな違いなのですが

自我を含む大きな大きなところ、

もしくは自我とは一切無縁の大きなところからみたら差はないのです。

 

わたしのからだと心が、自分のものであるという思い込みや

自我があるという思い込みによって

いいとか悪いという思いが生まれて行動を促しています。

 

だからといって「自我をなくそう」というのも自我のささやきであって

それも「迷い」につながります。

しかし、そうなってしまっても問題はありません。

自我という実体のある確固たるものは存在しないのだけれども

まああってもよし、なくてもよし、という

自由な境地がラクなところです。

 

それはどういうことかというと

・・・

自我をみているであろうところを感じてみることです。

それは名前がついていないので

これだとはっきり説明できないのですが

例えるとしたら、

なにかをするでもなく、なんとなく幸せとか安らぎとか心地よさがある感覚です。

 

感じてみたからといって

すぐにはっきりと感じられない場合がほとんどです。

そして何年すぎても

はっきりと感じられないかもしれません。

でも、なんとなーくとか

ほんの少しぐらいに感じられることと思います。

そのほんの少しが大事なのです。

そこでもっとたくさんとか

もっとはっきりとと奮起しないで

がんばらないことです。

がんばってしまうと、不思議とこの感覚は感じられないです。

日常のなかで、がんばらないでちょっと感じてみる姿勢が大切です。

もしがんばっても問題はありません。

禅には問題という定義がありませんので、問題とすることが問題かもしれません。

 

別のブログで、やり方などを紹介しています。

こちらの記事もなにか迷いに入り込んでしまって苦しい方がおられたら

参考になるかもしれません。

 

 

うれしいことも、悲しいことも、辛いことも、苦しいことも

人生には色々と起こります。

それはそれとして大いに味わい、人生の彩りのなかのひとつとして

嫌うこともなく、好きになることもなく

ただ来るものを味わって、ケロッとしている自我というのは

なんとも愛おしくも感じられたりします。

 

悲しいことは、悲しいままに

うれしいことは、うれしいままに。

いいことも、悪いことも

すべて永続しません、実体がありません。

晴れの日ばかりが続くことのないように

雨の日も雪の日も嵐の日も曇りの日もあります。

でも、自我は晴れの日ばかり続くことを望んでいます。

よくよく冷静に考えるとムリがあります。

 

辛いこと、悲しいこと、苦しいことは

悠久の時の感覚からみると、まるで煙や泡のようなものです。

この肉体が生存していることもそう長くはないです。

 

つまり「諸行無常」です。

この「諸行無常」を達観視できるところが

こころ穏やかで安らぎがあって心地よいところです。

 

 

とりとめのない、整合性のない文章になってしまいましたが

感じてみることから、すべて始まっていきます。

(もともとこの感覚は、整合性のある左脳では決して知ることができなくて
右脳でしか感覚できない領域なので、ことばで理解できるところはほんの僅かに過ぎません)

 

「迷い」から覚めることが本来の元々あるところの本当の幸せです。

覚めているところはいつでも在ります。

 

思考だらけでも、ふと感じてみることを思い出すと

なにか新しい気づきが起こるものです。

それだけでも大きな一歩、最初の一歩、完了の一歩なのだと思います。

  

さいごに、山田無文の「水の如くに」を含むことばを紹介します。

 

  

 

 

「なにもない」が在る

ー 「なにもない」が在る ー

という感覚を

坐禅やなにかの折に感じることがあるかもしれません。

 

それは、名前のつけようがなく

触ることもできず

眼にはみえなくて

匂いもなく

ただ感覚でしか認識できない。

 

それが「無」とか「空」といわれる感覚です。

 

それはものでもないし、

ことばで説明することがむずかしい

感覚でしか認識することができない代物?です。

 

 

例えば交通事故に遭ったことのある方で

その瞬間というのは、時間のスピードがとてもゆっくりで

その時には恐怖や思考すら、なにもない

ほんの数秒・・・

その瞬間は「無」の体験です。

 

貧血で倒れたことのある方は、

意識がなくなって倒れる瞬間は「無」の体験です。

 

 

ガイアシンフォニー第一番で紹介された

イタリアの登山家、ラインホルト・メスナー

登山中に800m滑落した瞬間に

なんの恐怖もなかった、

ただ落ちている自分をみていたと後述しています。

 

 

 

その「無」とか「空」とよばれる感覚にすっぽり陥ると

人生観がまったく逆転してしまいます。

 

わたしと思っていたものが、

実はなかったということが感覚的に理解されてしまい

まったく世界観が変わってしまいます。

 

 

やがて

 

そのなにもない感覚がありつつ、

植物は成長し

日が昇り、小鳥がさえずり、樹々のざわめきがあり

人々の動きがあり

いままでみていた世界と同じ光景が

浮かび上がって、みえてくるようになります。

 

それは今までみていた世界と同じなのですが

違うのです。

 

なにもないという「無」の中で

活発に動いている様々ないのちの躍動です。

 

あー、樹が青々と茂ってなんとすばらしい。

 

あー、お店の人がいつものように怒鳴っている。すばらしい。

 

 

光景は変わらないのですが、

とってもリアルで、生き生きとしてみえます。

 

「柳は緑、花は紅」ということばそのもの。

道元の「眼横鼻直」(がんのうびちょく)のことば、そのものになります。

 

眼は横について、鼻はまっすぐにある。

いままでのあたり前であることが

深淵なるものの表現であったのだ。

修行をしてきたけれども、得るものはなにもなかった

「空手還郷」(くうしゅげんきょう)「眼横鼻直」

道元禅師のご生涯|曹洞宗について|曹洞宗近畿管区教化センター

さまざまなものはありのままであって、
なんて素晴らしいものであったのかという気づきが実感されます。

 

いいことがあってよかったのは自我にとってのよいこと。

悪いことがあって、辛かったのは自我にとっての悪いこと。

すべて自我からみたら、よいこと悪いことの判断しかないことが

「なにもない」からみたら、いいも悪いもなにもなかった

ありのまま、そのままが慈悲の表現であったということが

はっきりと理解されます。

 

 

なにが起こっていても

なにもないーという名前のつけようのない、

敢えていうと、「シアワセ」。

それがあるだけ、不動になります。

 

煩悩即菩提 - Wikipedia 」ということばがありますが

煩悩のあるそのままが浄土であるということが

感覚的に理解されます。

救われていないと思っていたのが、すでに救われていたのだ、

生きとし生けるものすべてが救われていて

あらゆる表現をしているだけなのだ、

ということが理解されます。 

 

いわゆる「不二」と呼ばれるもので

主体も客体もなく

主体と客体と名前をつけているだけで、

実は主体と客体の2つがあるのではない、ということも理解されます。

 

相対の見方から絶対の見方になってしまいます。

 

相対のしあわせと絶対のしあわせの違いです。

相対のしあわせとは、自我(凡夫)からみたしあわせ。

絶対のしあわせとは、なんにもないしあわせ、理由のないしあわせ。

感覚的な無限のしあわせです。

 

そこからみてみると

あらゆるできごとは、夢幻の様々な動きそのものです。

その儚い夢幻であるからこそ

大切に思えて仕方なくも感じられます。

 

その感覚こそが、なんともいえない心地よさとよんでいるものです。

 

知識や経験、意図するものや思考である左脳では決して理解できない領域ですが

左脳のない感覚的なところでは、

じつに味わい深くいつでも存在するものです。