つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

相対のなかでの生き辛さ

「わたし」というものがあるところは常に相対の世界があります。

わたしとあなた、といったものの他にも

 

優れたものとそうでないもの

正しいと間違い

合格と不合格

いい気分と悪い気分

お金持ちと貧乏

また

ランク付けといった甲乙平や

順位といったものまで

 

往々にして

相対の場にばかり身をおくと、

いつの間にかサバイバルモードになってしまうものです。

そういった相対のなかでは時に息苦しさを感じます。

 

 

一方で

相対というものに対して違う見方もあります。

たとえば

槇原敬之さんの「世界に一つだけの花 - Wikipedia」では

「ナンバーワンではなくオンリーワン」といった見方をしており

これは覚せい剤所持容疑で逮捕されたことで仏教に出合い、

その成果で作られた曲だったと説明されています。

 

 

ナンバーワンがあると

その他はすべてナンバーワンになれなかったものとなってしまいますが

オンリーワンだと

すべてが唯一無二の存在になれます。

 

 

また

中島みゆき - Wikipediaさんのアルバムに「Nobody Is Right」という曲があります。 

 

 

 

 

歌詞のなかで

わたしがすべて正しければ周りをみればすべて間違いばかり

とか

正しさと正しさが相容れない

などと表現されています。

 

歌詞はこちら。

Nobody Is Right 中島みゆき - 歌詞タイム

 

 

もっとも 

「正しさ」といったものをよいものとしてしていますが

一体、真の「正しさ」とはなんであるか、ということが要です。

 

 

仏教でも「八正道 - Wikipedia」といって正しく知ることと表記しています。

 

「正しさ」というのは、各人によって全く同じであることはないはずです。

 

しかし仏教でもいわれている「正しい」というのがなんであるのか気になりますよね。

仏教も範囲が広く解釈・解説によって色々違いますので、ややこしい・・)

 

 

本当の正しさというものがなんであるか。 

 

知識で探究していったとしても

明確に断定することはできないところでお手上げになってしまいます。

 

また、経験の中でわかることがあるかもしれません。

  

体感としてなんとなく理解されるのが坐禅かもしれません。

 

いずれも共通していることは、相対ではないところと言えます。

 

相対ではないとは、つまり絶対です。

 

 

仏教では

善なる、とか

正しい、とか

六根清浄の清浄、

といった言い方をしますが

すべて同じもののことばの表現の違いなのだな、と思うところです。
 ↓↓ ↓↓

大乗でいうところの、我の囲いを外すこと。

 

 

そもそも正しいとか間違いといったところ。

それは誰が決めているのでしょう。

 

 

最もシンプルなこたえは

正しいとは何だろうかと知りたい、という「わたし」もしくは思考の源をみることです。

 

 

 

 

 

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