つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

掘り起こし「しあわせの隠れ場所 2012/12/13」

『しあわせの隠れ場所』

しあわせの隠れ場所 [DVD]

 

 

2009年11月初公開されたサンドラ・ブロック主演の、

とある黒人少年の実話に基づいた物語。

TV放映があり久しぶりに観ました。

 

その中で『はなのすきなうし』という絵本が印象的な場面があるのですが、

当時初めてその本を読んで

「人の個性は違っていていいんだよねー」という風に感じていました。 

 

はなのすきなうし (岩波の子どもの本 (11))

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

改めてそのことを思い出してみると、

人は個性が違っていていいのに、

人との違いが認められなくて苦しんだりしている・・なんて風に思っていたのだと思います。

そして時間が経って映画をもう一度みてそのことについて思ったことは、

自分は他の人と違っていていいのだけれど

他の人やまわりが認めてくれないから「苦しい」と思っていたのだなぁーということです。

他の人が認めれくれればラクになるのにという「期待」や

「他人がこうするべき」とか

「人はこうあるべき」というのがあり、

自分も他の人に認められたいという欲望・欲求があることに気づきました。

欲求というのは生きていく上で自然に色々と出てくるものですが、

仏教でいう愛を渇望する(渇愛)に通じるところもあります。

欲求が多いと迷いや苦しみが多くなってしまいます。

渇愛とは、愛を得たいと渇望して苦しむという意味ですが、

自我(エゴ)は何か足りない、

渇望感が無意識にあり、それが何かの折にぷわっと出てきて、

意識しないで「求める→得られない→苦しむ」ということが起こるのだと思います。

だから、ただそのことに自覚している、ということです。

そのことに気づいている。

そうすると、少し風が吹いて、少しの間ができて、軽くなります。


また、少年の台詞の中で怖い時には目を瞑って3秒数えるというのもありました。

それは、何かあった時に(起こった時に)

映画では怒って反応して暴力を起こすことがないというニュアンスだったと思いますが、

それもやはり自我は何か言われたらすぐに反応して行動するのと同じだと思いました。

少し間をおいて対応すると余計なトラブルが少なくなるものです。

ものごとに反応するのに続けてグルグルとしてしまい

巻き込まれてしまわないようにする一つの知恵みたいなものです。 

 

 

 

相対の苦しみから絶対の安楽へ憧れを

そして扉だと教えてくれるものが苦しみです。