つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*ほーーーっとしたくつろぎは立派な坐禅

禅を実際に取り組んでいくと

坐禅することや瞑想することに

無意識に捉われてしまうことが起こったりします。

坐蒲(ざふ)の上で足を組んで坐ることをしてみても、

かえって疲れてしまったり、

うまくいかないなーという感じで時間が過ぎたり・・。

 

坐禅や瞑想は何回も実践してみることが大切ですが、

たくさんやったらうまくいくようになる

というものでもありません。

 

臨済宗の禅僧・山田無文のとある本では、

「たくさん坐禅したら悟れるのならば

銭湯の番台に座りっぱなしのお婆さんは

とっくに悟っておるわい」というような表現があります。(笑)

 

うまくいかないなーという経験をしてみると、

これではないのだなーということがわかります。

では、どうしたらいいのでしょうか。

 

答えは、「どうにもならない」です。

 

瞑想や坐禅がうまくいこうがいかまいが、

どうにもならないことです。

 

ある日はとっても静かになったり、

違う日には全然静かでなかったりします。

 

こういった時々の変化を含めてが本当の意味での坐禅です。

 

そのうまくいったとか、

うまくいかないとかの判断や思考をただみます。

 

そういった以前に坐禅をしたら何かになる、

坐禅をしたら何かよいものが得られるといったものではない。

ということも知っておく必要があります。

 

坐禅をしたら何になる、何にもならない」

曹洞宗の禅僧・澤木興道のことばにあります。

 

坐禅会などで感じられる感覚とともに、

日常の暮らしの中での工夫が役に立ってきます。

 

日常においては、感じられやすいときに

感覚を感じるように取り入れていきます。

 

また形として坐禅を組まなくても、

ほっとできるお茶の時間は立派な坐禅でもあります。

 

形から入ってみたり、

感覚から入ってみたり、

色々な形でアプローチしてみることができると

禅とうまくつきあえて長く続けやすいかと思います。

 

禅はすぐに結果はでないものと思いますし、

また結果がでることがよいというものでもありません。

 

ただいまこの瞬間にいること、

感覚にあること、

ほんの一瞬であっても

それは坐禅となんら違いはないものです。

 

結果を気にせず続けていくことが、

むずしいところでもあり、おもしろいところです。

 

坐禅には「もうこれでよい」という終わりはないのですから、

生涯が坐禅でもあり、

いまこの一瞬が坐禅そのものでもあります。

悟りと聞くと大概の方は

迷いや不安がないのが悟りと思われることと思いますが、

深い意味においては迷いも悟りもないのが真の悟りです。

 

悟ったも悟らないもない悟りは、

まさにいま在ります。

 

いまという時間も距離も思考もない、

いますでに存在しています。