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つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところをただ記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

ほーーーっとしたくつろぎは立派な坐禅

坐禅や瞑想をいざ始められて実際に取り組んでいくと、坐禅することや瞑想することに無意識に捉われてしまうことが起こったりします。坐蒲の上で足を組んで坐ることをしてみても、かえって疲れてしまったり、うまくいかないなーという感じで時間が過ぎたり。

坐禅や瞑想は何回も実践してみることが大切ですが、たくさんやったらうまくいくようになるというものでもありません。臨済宗の禅僧・山田無文のある本の中に、「たくさん坐禅したら悟れるのであれば銭湯の番台に座りっぱなしのお婆さんはとっくに悟っておるわい」というような表現があります。(笑)  うまくいかないなーという経験をしてみると、これではないのだなーということがわかります。では、どうしたらいいのでしょうか。

答えは、「どうにもならない」です。

瞑想や坐禅がうまくいこうがいかまいが、どうにもならないことです。ある日はとっても静かになったり、違う日には全然静かでなかったりします。こういった時々の変化を含めてが本当の意味での坐禅です。

そのうまくいったとか、うまくいかないとかの判断や思考をただみます。

その前に坐禅をしたら何かになる、坐禅をしたら何かよいものが得られるといったものではないということも知っておく必要があります。

坐禅をしたら何になる、何にもならない」というのが曹洞宗の禅僧・澤木興道のことばにあります。

坐禅会などの場においての感覚とともに、わたし達在家は日常の暮らしの中での工夫といったものが役に立ってきます。日常においては、感じられやすい時に感覚を感じるように取り入れていきます。また形として坐禅を組まなくても、ほっとできるお茶の時間は立派な坐禅でもあります。形から入ってみたり、感覚から入ってみたり、色々な形でアプローチしてみることができると瞑想や坐禅とうまくつきあえて長く続けやすいかと思います。

坐禅や瞑想はすぐに結果はでないものと思いますし、また結果がでることがよいというものでもありません。ただいまこの瞬間にいること、感覚にあること、ほんの一瞬であってもそれは瞑想や坐禅となんら違いはないものです。

結果を気にせず続けていくことが、難しいところでもあり、おもしろいところでもあります。坐禅には「もうこれでよい」という終わりはないのですから、生涯が坐禅でもあり、いまこの一瞬が坐禅そのものでもあります。

悟りと聞くと大概の方は迷いや不安がないのが悟りと思われることと思いますが、深い意味においては迷いも悟りもないのが真の悟りです。

悟ったも悟らないもない悟りは、まさにいま在ります。いまという時間も距離も思考もない、いますでに存在しています。