つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところを記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

やり方を知らないだけ

わたし達は幸せになりたいという共通の思いがあります。

ただし、たくさんお金を得て幸せになるのだとか、多くの人を助けることが幸せであるとか、自分の欲求を実現して幸せになるのだとか、これをしていくことによって幸せになれると思い込んでいるようなところがあります。

そういう何かやり方であるとか、方法を経由して幸せになれるのだというのは幻想に違いないのですが、なぜそう思ってしまうかというと、幸せになる方法というものを小さい頃から教わったことがない、知らないだけです。

それは、何かをするというのではなく(doing)、ただ存在している感覚(being)にいることです。
そういうお話はきいたことがあることも多いかと思いますが、では何をするかというと、「よし、在ろう。わたしは在るぞー」とまた、やることをしてしまったりします。

ただ存在している感覚というのは、やろうとすることとは違うところにあるものです。

もうすでに在ります。すべてのものがいまそのものとして存在しているのです。在ることそのものなので、在ろうとすることとは違います。

在ることは何も問題もなく苦しさもないです、在ろうとすると途端にできたりできないことが問題となったり、何か苦しさのようなものも感じられたりします。

例えば、街路樹や道端に咲いている花でも、咲こうとしてガンバって咲いていたり、葉をつけたり枝を伸ばしている樹はないはずです。

自然に咲いたり散ったり、自然に風に吹かれたり、自然に葉っぱを落としたり、それがあるがまま起こっているだけです。

それが大きな意味でのいのちの営みのようなものであって、変化し続けているものです。

この「在る」というあるがままにいる時には変化に対して何の問題もありません。こういった感覚が本当の幸せでいるという感覚になります。

ですが、そういったことを知らなかったり習慣がなかったりする為に、在ろうとしたり、静かになろうとしたり、幸せを感じようとしたり、何かをやろうとして、結果できたりできなかったりというくり返しのままならない感じを味わいます。

そのままでいて安心していられる、そんなような感じが幸せの感覚です。それは思考であれこれ考えたり、これでいいのかなとか浮かんでこないところです。

お風呂からあがって扇風機の前に座りこんで風にあたっている時のような、寒い時に温かい大好きな飲み物を飲む時のような、広い空がきれいな夕焼けをのぞかせた時にふと見上げた時のような、ホンの数秒であっても何も考えていない感覚です。

その時には何かをしようとか、うまくやろうというようなことをやっていないです。その何もしていない時に感じられる幸せな感覚こそがわたし達が本当に求めている幸せの感覚です。

 小さい頃に好きなことをしていた時には、こういった感覚が自然にあったかもしれません。

いま在ることに何の心配もなく、安心という言葉さえ浮かぶことがない安心で平和な感覚は大人よりも小さな子どもの方が自然にそうであったりします。

0~1歳ぐらいの子どもをみると、こちらも自然に笑っていたりしますね。