つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

快・不快にこだわると苦しい

わたし達は気分がよい時は幸せな感じや快感を、

気分よくないことが起こると不快を感じます。

この快・不快は脳の扁桃体というところで認識されるそうです。

シンプルにいうと思い通りになることは快、

思い通りにならないと不快ということになります。

そこで生まれつきの遺伝子というかDNAというか環境というか経験というか

それによって同じものをみても快に思うか、

不快に思うか、

なんとも思わないかというのは決まっています。

ただし、

それにこだわると快・不快に関わらず苦しむことになります。

 

例えばある人から言われた言葉が心無いひと言に感じられて、

怒ったり悲しんだり不愉快に感じられたとします。

その時にどうしてあの人は、

あんなことを言うのだろう、

人に対してあんなことを言うものではないとか、

常識のないやつだとか、

不快にこだわってしまうと色々と思考が出てきます。

 

反対にあーあの時とってもよかったのよねー、

あれがないと困るのよねーなど、

よかったことに対してもこだわってしまうと

色々と思考が出てきて悩みや葛藤になり行く先は苦しみとなってしまいます。

 

坐禅や瞑想においても同じことがいえます。

あの時は静かな感覚だったのに

あーなかなか思うように進まないー不快だ。

わたしってどうしてこうなんだろうとか、

あの人はあんなに進んでいるのにわたしといえば・・とか。

これは不快にこだわっているということです。

不快だわーで終われば、

それから先の重苦しい思考には続いていきません。

 

目の前の現象のいい悪いにいちいちこだわってしまうと、

思考のエンドレス、

ぐるぐるな状態に入り込みます。

 

要は、快(よかったこと)は快でそのまま、

不快(悪かったこと)は不快でそのまま。

 

目の前の現象と快・不快をつなげないことが大事です。

 

不快な気分の時に、

こんなに気分が悪いのはあの人のせいだー

なんてことにならないようにすることです。

すべてはわたしが悪いのだわというのとも違います。

あの人がこんなことを言ったことと、

自分がいつまでも不快であることとはつながりや深い理由はないのです。

ただ自分にとって不快だった、

ただそれだけです。

ただ気分がよかった、

ただ不快だった、

ただ気分よくなかった。

自分の中の感情というか快・不快を

そんな風にシンプルにみることによって、

人生は単純に驚くほどラクになり、さらに軽やか~になります。

 

誰かが自分の思うようなことをしてくれない、

不快だ、ただそれだけです。

そうやって「行」(ぎょう)を続けていくと

ただ起こっているなーというのが感覚として理解されはじめていきます。

するとやがて快や不快ということにも、

あまりこだわらなくなっていく感覚が芽生えることと思います。

 

さらに快・不快を超えたただ平和な感覚や、

現象に一切関係ない安心した感覚や、

幸せな感覚が元々あったのだということに気づくことが起こります。

 

快・不快は、

ただ心地よかった、

ただ心地よくなかった、

ただそれだけ。

 

そこから先は考えない。

いつまでも快や不快を引きずらない。

 

自我や思考は、

原因や因果関係や対策を考えたり

解明したりすることが特徴なのですが、

左脳的な思考に主導権を握らせないのが肝心といえるかもしれません。

 

考える左脳から感じる右脳へシフトする。

これが大きな道すじのようなものになります。