つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

感謝や知足にいると無敵

禅のことばの一つに「知足」があります。

ブログに何度も登場してもらっていることばです。

もう少しわかりやすい一般的なニュアンスとしては「感謝」でしょうか。

なんだか知らないけど、ホントにありがたいな~みたいな感じがする時ってありますでしょうか。

わかりやすい例として、3.11東日本大震災の折にスーパーやコンビニから食品が一斉に消えた時期がありました。その時には、なんだか食べるものが手に入ってありがたいのだなーのような思いは多かれ少なかれ感じた経験がある方が多いかもしれません。

その時には多分フツウに食べることができるのって、ありがたいなーっていう感じです。誰に対してとか、具体的なものに対してとかじゃなくて、食べることができることってありがたい、を実感したかもしれません。

当たり前のことが感謝になる時というのは、自我はまず出てきません。

というか自我の性質からすると幸せを探そうと努力するのですが、みつけることはできないものです。なぜなら幸せはみつけるものではなくて、すでに在るものだから。

自我は足りないもの、欠けているところを探すのが特徴であり得意分野です。

わたし達は長い間の習慣から自我のみつけた足りないところから出発して、なにかをやろうとしますがそこで得たものというのは、そのみつけたマイナスを穴埋めしただけのものでしかありません。

反対に右脳的な感覚といってもいい感謝や知足から、なにかやると穴埋めではなく、何か違った感覚もしくは幸せなものになります。

 

言葉にできないようなありがたいな~という感覚は右脳的な絶対の感謝です。
いいとか悪いの混じった、もしくは向上すべきとか、ちょっと優劣の入ったありがとうは自我の左脳的な相対の感謝です。

 

相対的なところから感謝の時は、たくさんやろうとしないで1つか2つぐらいをじっくりと深めてみます。

もしここで自我はよくないという思いがあれば、ただ自我なんだなーとそのままにしておきます。

 

引き寄せ的な意味合いもありますが、いま感謝の思いや知足の感覚にいることは感謝を投影していることになるのでそういった未来が遅かれ早かれやってくることになります。それは3日後になるか、3カ月後になるか、10年後になるかはわかりません。

 

ただいまに在ると、なんの不足もなく過分もなく、ただ幸せなんだな~という感じがあるだけです。

自我からみると、きっと不足だらけです。

自我にとってはいまはダメでよりよくしようとするスタンスですので仕方のないことです。

ただこの世の中はそんなに悪いものではなくて、その時その人にちょうどよい、相応しいものが与えられていることに気づいていないだけです。

 

この違いを感覚的に何となく理解できると自我の得意とする思考ってそんなにいらないんだなーということがわかります。

この世の中とは、例えばよりよく生きる為にとか、生き残る為にとか、何かをやろうとしなくても安心できて、平和でいられるんだなーということが実感できます。

なので感謝しようと思わなくても、足るを知ろうとしなくても、十分に足りていたということがわかってしまいます。

得ようとしたり、変えようとしたり、直したりしなくても、そのままでカンペキなんだなーとわかってしまいます。

そのままで十分だなー、在るだけ(存在する)そのままで幸せなんだなーという人を不幸にすることはできないです。

知足の人は不幸にされることはできなくて、どんなものからも無敵になってしまいます。