つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*力のこもった一生懸命を、やらない

かつて若いころ

自分がなにか必死であったり

一生懸命になってさえやれば

どんなことでもなんとかなるだろう

なんとかなるはず

なんとかできるだろう

みたいなところがあったように思います。

 

一生懸命に、とか、

もっともっと、とか、

我武者羅にやれば、とか

努力して、とか

力をこめて、とか。

 

それがある年代を過ぎた頃から、

そうではないのだなーというのが

実感として理解されてきました。

 

相変わらず反射的に、もっとやりなさいとか、

一生懸命やるみたいなところもでますが・・。

 

子育てを何年か経験した頃からなのか、

人生もう折り返し地点は過ぎた、と自覚した頃なのか、

いつからというのはハッキリしないですが、

なんだか思い通りにならないっていうことが

フツウに感じられるようになった頃だったかもしれません。

 

思い通りにならないとは、

子育てでは、

子どもはもちろん、

まわりもなかなか親の思うように運びません。

また、

自分のからだについても

動くことがままならないことが増えます。

 

いままでは思うようになることが目標であって、

ならないのがおかしいと思っていたものが、

思うようにならないのがフツウというか、

まあ思うようにならないこともあるよねーみたいな感じです。

 

思うようにならないのが当たり前とまでは思いませんが、

全部が全部思うようにならないのは

当然と思えるようになっていました。

 

もしも、わたしというのが

欲望の束になったものだとしたら、考えてみると

思うようになるというのは欲がドンドンでてきて、

言い換えると

自我の「わたし」がドンドン顔を出して

口だしする流れが出来てしまうようです。

 

そこで思うようにならないことが起きて、

ちょっと痛い目に遭ったりするわけですが、

全部が全部、

思うようにはならないということが理解されていると、

そんなに混乱せずに、

スルーできて平穏無事に過ぎていってしまう

なんてことも起こったりするわけです。

 

でもわたし達は、思うように運びだすと

全部思うようにしようとがんばったりしちゃいます。

そこでさらに

何がなんでも思うようにしようとやると苦しいですし、

また空回りの挙げ句

ヘロヘロになってしまうことはよくあることだったりします。

 

反対に、思うところがないときに

よい流れが起きたりすることもあります。

ということで

がんばらなくても起きるようになっていることは起こるし

思考してがんばってやっても、

起こらないようになっていることは起こらない。

ということが体感されたみたいです。

 

人生とは流れて、やってくるものにOKをだして、

気楽にラク~に過ごせるものだなーという

経験を体感として幾度か重なっていくと

そんなにがんばらなくてもなんとなく平穏無事に過ごせて、

なんだか知らない間にうまくいってたりするもの。

そして、

もしうまくいかなくても、別に気にならなくなります。

うまくいっているとか、うまくいっていないというのことを

考えることがほとんどなくなります。

これは一足飛びにはいきませんが

何年かのうちに禅を通じて実感されたものに思います。

 

うまくいくとかうまくいかないなどといった

相対の世界から飛び出してしまうと、

捉われから離れていきます。

 

なんとかしよう~。

なにがなんでも、

なんとかしなくっちゃ。

なんとかできる。

といった姿勢は、儒教的な印象を受けます。

個人的な印象なので、個別に違う領域ですが

日本では当たり前と思えるくらい

古くから根づいている精神かもしれません。

 

イタリアで『お疲れさま』という挨拶ことばは

どうもないらしいです。

疲れるぐらい働かないのが当たり前みたい。

疲れるまで働いて

それでうまくいかなかったら、どうするの??

という精神のお国柄のようです。

ところ代われば、違いもいろいろ。

人も代われば、違いもいろいろ。

だから、おもしろいっていうのもあります。

好きなのを選べばいいんです。

好きなのを選べるんです。

どっちが悪くて、どっちがいいもないんです。

 

 

おっと、本題に戻ると

力を入れて一生懸命に、

力のこもった一生懸命を

やらない

というのは、やることを放棄するのではありません。

やりたくないから、やることをやらないのとは違って、

力を抜いて「ただやる」、

「たんたん」と取り組む。

 

禅の教えにもよく使われる「ただ」という言葉は

限りなく深い意味がありますが、

決して死にもの狂いでやることではないです。

プロセスとしては必要なときもありますが

重くて長いそういったプロセスは

ショートカットすることもできますよー。

また、そんなに力を入れてやると、

とくに禅では何時間も、何回も、

何年も続けてやることは難しくなってきます。

 

『力を抜いてただやる』

というのは、何をするにおいても、

そのたびに新鮮な気づきに教えられる気がします。

 

禅の教え「知足」に通じることですが、

できないことや思い通りにならないことに対して

そんなに欲を出さずにいると

かえって今までみえていなかった

偉大なものとか大きな気づきに気づかせてくれるものである、

ということも理解されてきます。

 

思い通りにならないというのは、

自我の側面からみると

とても耐えられないことのように感じられますが、

大いなる働きからすると

『少なくとも、

いまはそちらの方向に向かうタイミングではないのですよ』と

示唆してくれているようなものだということだと

じんわりと理解されます。

 

できなかったことが

あとから振り返ると、

それがかえってよかったのだという経験って

多少あるのじゃないかな・・・

気づいてなかったり

忘れていることかもしれませんが。

 

思い通りにならないことについてのこういった見方は、

自我からみると負け惜しみにしか聞こえないかもしれませんが

人生でいろいろなことが起こるにつれて

自我だけではないものが、なんとなく理解され

確実に実感されてくることもあると思います。

 

 

 

悩んだり、

頭のなかでのエンドレストークが延々と続いたり

思いつめたりしているときに、

曲をきいて

曲に合わせて

ちょっとからだを動かしてみましょうか。

思考によってカチカチになった心やからだに、

ちょっとだけ風穴があきます。 

 


クレージーキャッツ メドレー

 

    

 

  

 

  

これらは斎藤一人さんがいうところの

自分の機嫌をとる、に通じるところがあると思います。

 
機嫌をとるのブログはこちら 

 機嫌をとる、という言い方は、ちょっと重いかなぁ。

 

ちょっと笑うことができる、

余裕、隙間とか、ゆとり。

 

諸行無常の常ならん、実体のないことに対して

いますごーく悩んでるけど、

もしこれが解決しても、

また違うことで、この先また悩むんだろうな~と

いう視点からみることができると

クスっとできたりして、

ロックオンされていたところから

ふっと力が抜けてきます。

 

笑いヨガは、おかしく笑うそんなエッセンスがある感じします。 

子どもの頃、笑い袋というのがあって流行りました。

 

駄洒落とか、

落語もいいですね。

息をほぁーーーーーーーーっと吐く。

空を見上げる。

思考(左脳)によって詰まった気からちょっと息抜きできます。

 

また、日頃から

鼻歌、ぬり絵、踊り、ヨガポーズ、土いじり・・・

さんぽ、呼吸法など

自分なりに気に入るアイテムを用意したり

気楽に関わっているのも愉しいものです。

 

ポイントは、頭脳をなるべく使わないで感覚で行えるもの。

思考を使うものだといつまでも頭を休める機会がもてないので

それ以外のもので。

軽~くて、むつかしいことを考える必要なく、

手を使ったり、

足を動かしたり、

笑いヨガのように顔を動かしたり、

声を出したり

からだで行うものがいいです。

ハンドマッサージもいいですよ。

人や動物にマッサージしてあげたり、

大好きな人からタッチしてもらったり

ペットを撫でてみたり。

皮膚感覚もあたまを使わないので

心地よさ気持ちよさから思考を使うことなく

感覚を活性化してくれます。

 

 

   

柳は緑 花くれない 風が吹いたら ナンマイダ ~♬

学生節

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