読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところをただ記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

一生懸命やらない

若い頃は自分がなにか一生懸命になってやれば何とかなるみたいな思いがあったように思います。一生懸命とか、もっと必死でとか、ガムシャラにやればとか。(笑)

ある年代を過ぎた頃から、そうではないのだなーというのが実感として理解したような気がします。

相変わらず反射的に、もっとやりなさいとか、一生懸命やるみたいなことがありますが・・。

それは子育てを何年か経験した頃からなのか、人生もう折り返し地点は過ぎたと自覚した頃なのか、いつからというのはわからないですが、なんだか思い通りにならないっていうことがフツウに感じられるようになった頃だったかもしれません。

思い通りにならないとは、子育てについてもなかなか子どもは親の思うように動いてくれません。また、自分のからだについても動くことがままならないことを自覚したりします。

いままでは思うようになることが通常であって、ならないのがおかしいと思っていたものが、思うようにならないのがフツウというか、まあ思うようにならないこともあるよねーみたいな感じです。

思うようにならないのが当たり前とまでは思いませんが、全部が全部思うようにならないのは当然と思えるようになっていました。

 

自分というのは欲の束になったものだとしたら、考えてみると思うようになるというのは欲がドンドンでてきて、言い換えると自我がドンドン顔を出して来るように思います。

そこで思うようにならないことが起きて、ちょっと痛いめに遭ったりするわけですが、全部が思うようにはならないということだけでも覚えていると、そんなに混乱せずに、スルーできて平穏無事に過ぎていってしまうなんてことも起こったりします。

でもわたし達は、思うようになりだすと全部思うように頑張ったりしちゃいます。

 そこで何がなんでも思うようにしようと頑張ると苦しいですし、空回りの挙げ句ヘロヘロになってしまうことはよくあることです。

 

人生とは流れやってくるものにイエスをいって、気楽にラク~に過ごせるものだなーという経験を何度かしてみると、そんなに頑張らなくてもそこそこ平穏無事に過ごせて、なんだか知らない間にうまくいったりします。

そしてもしうまくいかなくても、別に気にならなくなります。

 

なにが何でも一生懸命という感じは、儒教的な印象を受けます。日本人に多くみられる精神かもしれません。

一生懸命やらないというのは、やることを放棄するのではありません。

力を抜いて、「ただやる」、「たんたんと行う」。禅の教えにもよく使われる「ただ」という言葉は限りなく深いですが、決して死にもの狂いでやることではないことは確かです。また、そんなに力を入れてやると、何回もまた何年も続けてやることはできないです。

力を抜いてただやるというのは、何をやるにおいても、そのたびに新鮮な教えに気づかされるような気がします。

 

禅の教え「知足」というのは、できないことにあえて欲を出さないでいるのは、かえって今までみえていなかった標準装備されている偉大なものに気づかせてくれるものだということも理解されます。

 

また思い通りにならないというのは自我の側面からみるととても耐えられないことのように感じられますが、大いなる働きからするとそちらの方向は違うのですよと教えてくれているようなものだということも理解されると思います。