つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

できないことやうまくいかないことを問題としない

前回のブログからの少し発展したおはなしです。

人生がうまく流れていってほしいのは誰でも思うことですが、行動はしているけれども、どうしてもうまくいかなかったり、うまくできなかったりして、落ち込んだり、不安になったり、心配になったり、時にはそのことでまるで病気のようになってしまったりしたことがある方もおられるのではないかと思います。

うまくいかない時にはうまくいかそうとして自我はがんばるわけです。

しかしがんばってもうまくいかないことが続いて手の施しようがないとなると、自我は逆にがんばることをしなくなったりします。

そこでどのように人生を過ごしたらよいのかわからなくなってきますが、そこで禅というのは「できないことやうまくいかないことは問題でなない」ということを教えてくれます。

あらゆる手を尽くしたけれどもどうしてもうまくいかなくて悩んだり苦しんだりしているからこそ、この「なにも問題ではない」という教えがスッと入ってきて一瞬でもラクな感覚が体験できるのかもしれません。

人生には苦しみはつきものかもしれませんが、例えていうと問題解決とはその苦しみの対処療法のようなもので、禅の教えはそもそも問題というものはないのだよという感じです。

もしなにかを問題とした途端に浮世の楽しいと苦しみの世界につながっていきます。

できないことやうまくいかないことがあるけれども、それはそのままにして別にいいよーぐらいの軽やかさで問題としなければ、なにも捉われることがなく苦しみようがありません。

 

さてこのように問題としないという姿勢ですが、日頃の禅の関わりがあってこそ培われるものかと思います。禅はもちろん坐禅が基本ですが「座っても坐禅立っても坐禅」の日常のそのまますべてが「行住坐臥」です。

般若心経で冒頭に説かれている「観」の感覚から過ごすことが大事です。

「不生不滅」であるところ、そこにいるとやはりなにも問題ではないということ。

それはすでに幸せなんです。幸せという言い方をするとちょっと美化しすぎかもしれませんが、安らぎといってもいい穏やかで顔がにっこりしているような感覚があって、その中で色々なことが起こっているのだなーというようなことがわかってきます。それがいまここで起こっているすべてのことです。