つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*ちょっとした実験をしてみましょう

前回のブログで動作をする中で聴こえている音について、

ちょっと記しました。

 

今日は音や五感について、ちょっと実験をしてみましょう。

 

たとえば、いま聴こえている音がなにかありますか。

部屋の中にいるとすると、

空調の音や

人のしゃべり声、歩く音、

外から聴こえてくる鳥の声、

自動車の音、電車の音、

自分が呼吸している息の音など、

なんでもいいので、

1つか2つそれに意識を合わせます。

 

そして質問をしてみます。

その音は、どこから現れて、どこに消えていくのかなー。

 

ゆっくりと感じてみます。

 

 

 

 

もしわかりにくければ、

ゆったりできて部屋で一人でぼーっとできるような時に、

この質問をしてみてください。

 

そして音は実際なんでもよいのですが、

もしわかりにくければ、

鈴(りん)や鐘などちーんとか、ぼーんと鳴らすもので

響きが徐々になくなっていくものが一番わかりやすいかと思います。

 

その音が鳴った時の余韻みたいなものは、

どこへ消えていくのかなーーーーーー。

 

 

と質問をしますが、

ことばで答えるのではなく、

どんな感じがするのかをやってみます。

 

どんな感じがするのがよいのか、という正解はありません。

感じ方にいい悪いはありません。

どう感じても、

こたえはすべてまちがいでなく、すべて正解です。

 

 

オーラソーマ的な質問の方法だと、

その音の背後にあるものを感じてみます。

 

 

人によっては

音が消えていってなくなったときに広がる感覚、

音が出てくる前のなにもない感覚、

音がやってきては消えていくその空間、

音の消えていく空間、

どんな感じ方になるかそのときどき、人それぞれ違います。

 

その感覚を感じられることに、いい悪いもありません。

もし感じられなければ、

また今度感じてみるというだけです。

 

 

音の感覚以外でも、

なにか温かさや柔らかさを感じたときの触覚、

なにかの匂いを嗅いだとき匂いとともに広がっていく感覚、

美味しいものを食べたときなにか感じられるしあわせな感じ

けんかした相手と仲直りしたときの感覚など、

あらゆる五感というものに付随している感覚です。

 

その何も色や形のついていない、

般若心経の世界そのもののような、

五感が広がっていく空間のベースとでもいう感覚に触れたときには、

なんとも言葉すら出てこない感覚があります。

最初は、

微かに感じられるか感じられないかぐらいかもしれませんが、

やがてはっきりと「在る」ということの理解が起こります。

 

それはなくなることがない感覚で

元からあるものなので探してもみつからない、

ただあったというだけで、

具体的に言葉で表現することがむつかしい

深い平和に満ち溢れた感覚です。

 

いつでもあるのですが、

観えなくて感じられにくくなっているだけです。

 

 

一生に一度この感覚に深く触れただけでも、

大きく人生観が変わってしまうぐらいの感覚です。

肉体が死に瀕している状況であっても

それを冷静にみているような体験もそうです。

ガイアシンフォニーにも登場した、

イタリアの登山家ラインホルト・メスナー

下山中に800m滑落した時の自分の様子を

ただ静かにみていたと語っています。

彼はその時になんの恐怖心もなく、

ただ落ちている自分をみていた感覚だったそうです。

 

また

宇宙飛行士のお話で宇宙を体験したおり

深い気づきの感覚を体験されたことで、

人生が変わったとか、

いままでとまったく違う世界観や見方になった

というお話もよく耳にします。

これからの時代は宇宙飛行士でなくても

2千万円ぐらいで宇宙旅行ができるようになるようです。

ただし実質1~3分ぐらいのものらしいです。

予算があればぜひ行ってみたいものですが、

地上訓練もなかなか大変そうなので、

まあいいやーという感じです。

 

 

15年ぐらい参加している禅の研修会で以前のお話では、

「その感覚というのは、宇宙旅行、そんなちっぽけなものじゃないんです」

というフレーズがあったのをよく覚えています。

禅に親しみ始めた頃、

その言葉に非常にひかれていったという感じです。

 

禅はすぐに結果のでるようなものとは違うのですが、

やることはシンプルで同じことのくり返しです、

でもとっても深いです。

また結果を期待するものでなく、ただ坐るだけです。

しかし、

その感じられる深さは気づきのレベルといってもいいかもしれません。

そしてとうとう気づいているわたしというものが

最初からなかったということが理解されます。

がんばれば結果の出るものではなくて、

続けていった時に向こうからやってくる感じです。

続けていくことにちょっとした工夫があればいいと思うのですが、

禅にロマンを感じられるのは、

ちょっとモチベーションがあがったりします。

 

結果だけを求めずに、

結果についつい執着してしまう自我の「わたし」をみつつ、

自分なりの続けていく工夫をみつけてみるのも

きっとたのしいはずです。

むつかしいと思うのは思い込みです、

ちょっと感じてみるだけ。

むつかしいなーと思われたら、

それは自我の「わたし」が入り込んでいる証拠です。

 

実際はむつかしいもカンタンもないです、

とってもシンプルです。