つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところを記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

ちょっとした実験をしてみましょう

前回のブログで動作をする中で聴こえている音について、ちょっと記しました。

 

今日は音や五感について、ちょっと実験をしてみましょう。

 

例えば、いま聴こえている音がなにかありますか。

部屋の中にいるとすると、空調の音や人のしゃべり声、歩く音、

外から聴こえてくる鳥の声、自動車の音、電車の音、

自分が呼吸している息の音など、

なんでもいいので、1つか2つそれに意識を合わせます。

 

そして質問をしてみます。

その音は、どこから現れて、どこに消えていくのかなー。

 

ゆっくりと感じてみます。

 

 

 

 

もしわかりにくければ、

ゆったりできる時に部屋で一人でぼーっとできるような時に、この質問をしてみてください。

 

そして音は実際なんでもよいのですが、

もしわかりにくければ、鈴(りん)や鐘などちーんとか、ぼーんと鳴らすもので響きが徐々になくなっていくものが一番わかりやすいかと思います。

 

その音が鳴った時の余韻みたいなものは、

どこへ消えていくのかなーーーーーー。

 

 

と質問をしますが、

ことばで答えるのではなく、

どんな感じがするのかをやってみます。

 

どんな感じがするのがよいのか、という正解はありません。

感じ方にいい悪いはありません。

どう感じても、こたえはすべて間違いでなく正解です。

 

 

オーラソーマ的な質問の方法ですと、

その音の背後にあるものを感じてみます。

 

 

人によっては

音が消えていってなくなった時に広がる感覚、

音が出てくる前のなにもない感覚、

音がやってきては消えていくその空間、

音の消えていく空間、

どんな感じ方になるかその時々、人それぞれ違います。

 

その感覚を感じられることにいい悪いもありません。

もし感じられなければ、また今度感じてみるというだけです。

 

 

音の感覚以外でも、

何か温かさや柔らかさを感じた時の触覚、

なにかの匂いを嗅いだ時に匂いとともに広がっていく感覚、

美味しいものを食べた時になにか感じられるしあわせな感じ

けんかした相手と仲直りした時の感覚など、

あらゆる五感というものに付随している感覚です。

 

その何も色や形のついていない、

般若心経の世界そのもののような、

五感が広がっていく空間のベースとでもいう感覚に触れた時には、

なんとも言葉すら出てこない感覚があります。

最初は、微かに感じられるか感じられないかぐらいかもしれませんが、やがてはっきりと「在る」ということの理解が起こります。

 

それはなくなることがない感覚であり、元からあるものなので探してもみつからない、ただあったというだけで、具体的に言葉で表現することがむつかしい深い平和に満ち溢れた感覚です。

 

いつでもあるのですが、

観えなくて感じられにくくなっているだけです。

 

 

一生に1度この感覚に深く触れただけでも、大きく人生観が変わってしまうぐらいの感覚です。

肉体が死に瀕している状況であってもそれを冷静にみているような体験もそうです。ガイアシンフォニーにも登場した、イタリアの登山家ラインホルト・メスナーも下山中に800m滑落した時の自分の様子をただ静かにみていたと語っています。彼はその時になんの恐怖心もなく、ただ落ちている自分をみていた感覚だったそうです。

また宇宙飛行士さんのお話で宇宙を体験した時に深い気づきの感覚を体験されたことで、人生が変わったとか、今までと違う世界観や見方になったというお話もよく耳にします。これからは宇宙飛行士でなくても2千万円ぐらいで宇宙旅行ができるようになるようです。(ただし実質1~3分ぐらいのものらしいです)予算があればぜひ行ってみたいものですが、地上訓練もなかなか大変そうで、まあいいやーという感じです。

 

 

15年ぐらい参加している禅の研修会では講師の以前のお話で、「その感覚というのは、宇宙旅行、そんなちっぽけなものじゃないんです」というフレーズがあったのをよく覚えています。

やり始めた頃、その言葉に非常にひかれていったという感じです。

 

坐禅はすぐに結果のでるようなものとは違うのですが、やることはシンプルで同じことのくり返しです、でもとっても深いです。

(また結果を期待するものでなく、ただ坐るだけです)

しかし、その感じられる深さは気づきのレベルといってもいいかもしれません。そして最後には気づいているわたしというものが最初からなかったということが理解されます。

頑張れば結果の出るものではなくて、続けていった時に向こうからやってくる感じです。

続けていくことにちょっとした工夫があればいいと思うのですが、坐禅にロマンを感じられるのは、ちょっとモチベーションがあがったりします。

結果だけを求めずに、結果についつい執着してしまう自我をみつつ、自分なりの続けていく工夫をみつけてみるのもきっと楽しいはずです。

むつかしいと思うのは思い込みです、ちょっと感じてみるだけ。

むつかしいなーと思われたら、それは自我のわたしが入り込んでいる証拠です。

実際はむつかしいもカンタンもないです、とってもシンプルです。