つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

あるがままーーーー

物事の状況や結果、

過程、

起こったこと、

出会う人、

思うようにならないこと、

すべてのことが、

あるがままであって、

そのままでシアワセなのだということが感覚的に理解されると、

もの凄く人生はラクでいられます。

 

「あるがまま」と聞いてどのように思われるのかリサーチをかけたいところですが、

多分たぶんですが大きく2つに分かれるかと思います。

 

1つは、「はーーーーーー?」

そのままでいいわけないじゃんという感じのスタンスです。

いまは気に入らないし、

もっとよくなる為に、

もっと自由にもっと幸せに過ごせるように人生生きていきたい、

それが大事テキな感じ。

もしくはいいことなんかあんまりないぐらいの

何となく恨みがましさのある感じ。

 

そしてもう1つは極々少数派だと思うのですが、

そのままですべてカンペキだと確信できないまでも、

なんとなくそうなんだよねー、

そうかもしれないなーと気づき始めた感じ。

 

すべては神の思し召し、

神の御心のままに、

といった大いなるものの意志に委ねることができる感じ。

 

人生の体験を通してなんとなくそう感じ始めたりしているかもしれません。

 

キリスト教イスラム教の中でも一部表現されている言葉かと思います。

 

もし肉体が死を迎える時期までにこのことが理解されますと、

死の間際においても苦しむことがほとんどないと思います。

 

そこで、

そうだー神(的な存在)を信じてそのまま従っていけばよいのだー

というのはちょっと違います。

それでしたら犠牲的なことを強いられる印象で苦しいです。

 

 

さて、坐禅や瞑想では「わたし」というものをみていきます。

感覚的にみていきます。

 

禅でいうところの悟りとは、

仏性と呼ばれる信じるものと、

仏を信じるわたしというものが、

違うものではなかったということがわかるということです。

 

つまり信じるものと信じられるものが同じであったと

理解されることが本当の悟りです。

禅の高僧といわれる方々のうちでそんなに数多くは存在しないと思われます。

その悟りの境地からみますと、

犠牲となるわたしというのはいないということがわかります。

 

このようなことを坐禅や瞑想を通して体感としてからだに落とし込んでいくことは、

とても希望のもてるものです。

 

 

もの凄くざっくりで、

超シンプルな説明で、

チンプンカンプン、

混乱された方はどうぞそのままで。

 

自我は決して理解できない事柄ですが、

坐禅や瞑想を日常的にされていくと、

気づきが起こって、

なんとなくその方向に向かっていくようになります。

 

物事をやる(する)ということから、

だんだんと自然に在ることの感覚へのシフトが起こるようになります。

お話を何回きいたら気づくようになっているかは人によって違うようですが、

まずは方向を決めてやめないで続けていくことが大事です。

 

あらゆる物事の結果に捉われなくなった時に

本当の意味での自由を、

あるがままが理解されます。

 

本当に幸せな感覚である時には、

もっと幸せになりたいとは思えなくなります。

 

そのままでもう十分だという感覚になります。

 

 

機会がありましたら、

こういったことをブログ以外でお話する機会があるかもしれません。

 

いまはこうやって書いているのも、おもしろいことです。


どうして書いているのかは、実のところよくわかりませんが・・。