つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*「まっ、わかったら、つまんねーか」

 おもしろいCM動画があったのでブログにしてみます。

 

缶コーヒーのCMなのですが

京都の龍安寺石庭をみながら、

タモリさんがいうセリフが印象的です。

「こーれは、わかんないね」

「まっ、わかったら、つまんねーか」

 

   

自我の「わたし」は知ろう、わかろうとする特徴があります。

なので、わからないことを

どうしても力ずくでわかろうと努力します。

わかり知ることの決してできないものを

わかろう、わかろうとするととてもエネルギーを消耗して疲れます。

また、

自我がわかるように説明したり教えようとすることも、

とてもエネルギーを消耗します。

自我の理解できないものを思考で説明することはできないです。

とってもめんどくさいです。

そういいいながらもブログに書いたりしてるのは

どうかと思いますが、よくわかりません。(笑)

 

 

 禅ではよく放下著(ほうげじゃく)とか、

莫妄想(まくもうそう)、

「妄想するなかれ」といわれます。

これ以外のもっと深い意味もありますが、

ここでは思考するなかれ、という意味で、

のちほどの説明では違う意味につながってきます。

そして、ここでは行為があります。

禅で体験できることは、知ることではなくて、

もしわからなければあーわからないなーを

そのままにしておくことから始まります。

すると気づきの理解が起こります。

または、

そのわからないをただ観るということです。

結果的に行為して理解することではなくて、

「在る」(在ったのだ)ということが

体験としてわかることです。 

ではどうやってわかるのかというと

感覚的に理解されます(気づきます)。

わかったわからないに関わらず、

すでに在るのだという理解が自ずとやってきます。


わかろうとする自我の「わたし」がなかった(なにもない)

という理解が起これば、

既に在ったのだということが同時に理解されます。

わからないなーをそのままにして、

触れていく力とでもいいましょうか。

知ろうとか、わかろうとする自我の傾向を徐々に慣らして、

わからなくてもそのままで安心していられるというところへ

つながっていくというような感じです。

 実際に頭(知識)でわかることのできるものは

ほんの少しであり限界があるということを知るだけでも、

大切なことがわかるということでもあります。

 

禅はことばで説明しようとすると難しくて、

またそれを嫌うものです。

「不立文字」(ふりゅうもんじ)といわれ、

感じてみるとなんとなくわかるものです。 

そのわかったことを自分のものとしないでいると、

さらによくわかることが起こります。

わからないことを深刻にとらえずに、

「わからなくてもいいかー」とタモリさんのセリフのように、

わからないことをおもしろがる。

もしくは

わからないことをそのままにする、

わからないで別にいいかー、

などこういったスタンスができるととっても人生は軽くなります。

 

すべてのことは神(的な存在のエネルギー)のみぞ知ることですから、

自我の「わたし」が選んでなっているわけではないですよね。

例えばどこに生まれてくるかとか、

境遇とか、性格とか、両親とか、容姿とか遺伝体質とか・・・。

わからないけど、ちゃんとなるようになってるんだよねー

ぐらいの安心した軽い気持ちで過ごせるのは、

幸せですし「不幸知らず」といってもいいかもしれません。

これこそが禅の「知足」の境地です。

知足にいる人を不幸にすることはできません。 

もし人生で思うようなことが起きなかった時にも

「知足」にいると、

その出来事(現象)はきっと、知らない間に

すーーーーーっと解決される(流れていく)ことと思います。

もしくは思うようにならなくても別に問題にならないし、

気にならなくなります。

 

これは引き寄せでもあります。

また、

そのまんまでいて抵抗がない状態です。

抵抗は葛藤を呼び寄せ、

イライラや心配・不安など重いものを引き寄せます。

そしてイヤなものが来ると

イヤだなーイヤだなーがあるとさらにドンドンきます。(笑)

逆に「イヤなものどんと来い」という姿勢ですと

不思議とやってきません。

起こったことに対してイヤな思いがあっても

そのまんまにして、

いまある心地よさを感じていきます。

やがて

深くは、問題と思っていたけれど

最初から問題というものは一つもなかったということも

理解されてきます。

禅の扉は引き寄せの法則と同じで、

いまある心地よさ、

もしくはありがたいなーと感謝を感じることにあります。

心地よさとはこれといった決まったものではなく、

美味しいものを食べてるときの幸せな感じとか、

編み物や縫い物・彫刻・絵画・書道・スポーツ

うたを歌っている時の心地よさとか、

美しい景色・きれいなものをみた時の幸せな感じとか、

波乗りをしている時の心地よさとか、

風に吹かれている心地よさとか、

マラソンや散歩している時の心地よさ感じとか、

からだが緩んだ時のほーーっとした感じとか、

語り合って通じ合った時の心地よさとか、

大好きな人やペットや子どもなどに触れている時の心地よさとか、

親切にした人から感謝された時のいい感じとか、

ごちゃごちゃした部屋を片づけてスッキリとした心地よさとか、

大笑いした時のすっきりとした感じとか、

自分なりのヒットする心地よさ(しあわせ)の感覚です。

特別なことでなくても

癒されるとか、落ちつくとか、ほっこりとか、

好きとか、ゆるむとか

そういったわかりやすい言葉で表されるような感覚です。


そこから、

その五感からつながってくる感覚でほんのわずかな間の

言葉にならないような感覚をじわーっと味わっていくということです。

たとえ目の前で自分の思うようなことが起きなかった時でも、

それをそのままにして、

安らぎの心地よさとか感謝の感覚を感じる(味わっていく)ということです。

いまどきは『スルー力』という言葉もありますが、

はねのけるとは違って、

あるがまま、そのままにしておきながら、

心地よさに戻っていくという感じです。

自我の「わたし」のやり方というのは、

いいことがあったら気分がよいのですが、

悪いことがあったらもう最悪です。

そうではなくて

目の前の現象のいいこと悪いことに関わらず

ちょっとした感謝や安らぎの心地よさを思い出す。

味わう、戻っていく、合わせるということです。

もし今いざこざがあったとして、

あー幸せだなーって思えなくても

いまのホンのちょっとの心地よさや感謝の感覚に戻っていきます。

これは修行つまり実践していくことです。

続けていきます。

ポイントは自我の「わたし」のやり方や習慣ですと、

きっと沢山やり過ぎますから

苦しくなりますし心地よさも感じられないですから、

いきなりたくさん感じようとせずに、

ほんのちょっとずつできるところから感じてみます。

無理しない自分のペースがちょうどよいぐらいです。

これも「知足」です。

だからほんとうは修行はたのしいんです。

たのしめるものです。

その過程で色んなことに気づきがあると思います。

心地よさにいる。

これが引き寄せであり禅の隠された扉でもあります。


また禅と引き寄せの決定的な違いというか

引き寄せの法則で注意することがあります。

それは、

これをしたらこういう結果になるなどの

目的や目標をもたないということです。

期待も損得もなしに、

いまダメだからこうしようという思いなく、

ただ行じる(感じる)ということです。

 

禅では「ただ」する、

日常の行いにも「ただ」することを実践していきます。

目的をもたずに、

たんたんと行(ぎょう)じていくことに禅の風格があります。

 

感覚を味わうことは

性別、経験、年齢、立場、役割、環境などに関係なくできるものですし、

元々あってそれを味わっていくことによって、

感覚がどんどん引き出されてきます。

最初からいきなりは難しいかもしれませんが、

やがて別に何もいいことがなくても、

イヤなことがあっても、

思い通りにならなくても

感覚を感じられたり、

目の前の起こることに一切関係なく感じられてきます。

次第に

今までわからなかったことが感覚的にわかるようになります。

アハ体験のようなことを体験したりします。

心地よさでもいいですし、感謝でもよいです。

その時々で自由に感じてみる(感じられる)のはたのしいものです。

もし感じられなかったら、

感じられないで落ち込んでいるわたしを観ます。

ニターっとします。

それが般若心経にかかれている観自在菩薩の自由にみる「観」の入口です。

 

 

 


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