つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところを記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

さとり・・・・

さとりとは悟り、覚り、差取り。

自我はものごとを分ける見方をします、これとあれ、いまと未来、過去といま、わたしとあなた、この人とあの人、この国とあの国、この出来事とあの出来事、よいと悪い、できたとできない、勝ちと負け、損と得、憎いと可愛いい、原因と結果など・・・。

悟りにおいてはプロセスと結果やゴールもありません。

仏教において修行と悟りは別のものではなく、一つであるとする立場があります。

 

ですから

いまここにあるものがすべてで

はじまりであり終わりであり、

坐禅そのものがすなわち悟りであり

プロセスであり結果です。

わたしとあなたがない感覚です。

 

そこには時間も距離もないです。

 

眠るホンの数秒前にある感覚、ウトウト~とした感覚。

静寂の感覚です。

それが「在る」という感覚に触れた時に感じられるものです。

その感覚はいつでもあります。

 

結果を求めずに、いまここにあるもの、それが悟りです。

 

そして、ことばも名前も形も色もなんにもないところ、

つまり悟りというネーミングさえないところがホントの悟りです。

 

仏教ではこのことを「無」の一字で表しています。

簡潔にして重要であり、簡素にして深いです。

 

感じられた感じられないということに、いいと悪いの区別もなく、

悟りと迷いもなく、

ただ在るということ、あるがまま、そのままで十分、知足であることが理解されるところです。

 

相対でみる心というものが元々なかったとわかる絶対の境地、そういったものが開けてみることのできるところです。
そこからものをみますと、

法話「柳は緑、花は紅-あるがままの姿に徹し生きる-」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

「柳は緑 花は紅」であって何の間違いもなく、ありのまま、そのままがお浄土だったということがわかるということです。

 

 

道元が修行から戻って、たくさんの修行をしたがなにも得るものがなかった。このままがすべて仏性の現われであったと「眼横鼻直」(がんのうびちょく)という言葉を残しています。

禅語「眼横鼻直」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 

 

十牛図 - Wikipedia」の第九図にあります「返本還源」(へんぽんげんげん)の図にありますように、ありのままの真実だということがわかるということです。

 

 

十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス」より引用しますと

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水は緑、山は青、ありのままの世界が絶対だ、本分の家郷だ。ありのままの世界を、ありのままに見てゆけ。ありのままどころではない、何を見ても美しい、何も見ても真実だ、とそういう目のひらけることが、返本還源だ。

 

ちょうど前段の一円相とは裏表になるわけである。何もない一円相が裏であるならば、梅の花が咲き水が流れておる返本還源は表である。表裏であるが、しかもそれは一枚である。

 

仏法には何の跡形もない。その跡形もない心で、もとの山を眺めるというと、松は緑に花は紅だ。心というものは何もないのだ、本来塵一つない清浄なものだと分かるならば、もとのままの山が実在である。この自分がそのまま仏である。
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なのであえて悟りといわなくても、すべてが悟っているのだ、つまり仏性とわかるところでもあります。

 

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逆にいいますと、ありのままそのままがお浄土の世界だとは感じられなくても、
わからないけどまあいっかー、そのまんまでいいのだなー、何だかありがたいのだなーとちょっとでも感じられるものがあればそれは悟りとなんら違いはなく、そのままで救われており悟りの境地と変わりはないということです。

ですからいまこのままの世界がそのまま教えであり、教本でもあり、現われでもあり、いまここでしか悟りの扉は開かれないのであります。

探究を実践されている多くが苦しんでおられるのをみかけます。結果を得よう、こうしなくっちゃ、これではダメだなど・・・・。

悟りが目標になってしまうと苦しいです、悟りを目標とせずにただ在るだけ、そのままでいるだけです。

このままでいいと思えないわたしも、悟りを目標にしてしまうわたしも、苦しいわたしも、このままでいいのです。

すべては、なるようになっています。なるようになっていないことは絶対に起こらないようになっています。常に思うようなことが続くことはあり得ません、でも後から振り返ってみるとちゃんとなるようになっています。
いまここにあるものが仏性そのものです。

 

ここでも「知足」です。
最初に足を踏み入れた足ることを知ることから、何もしようとしていない時に自ずといま十分に足りていることが感じられてきます。
「知足」はホントに深すぎます、いったい深さ何センチぐらいでしょうか。(笑)