つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところを記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

ブログの紹介と自己紹介

などのブログを書いています。

 

 

ブログをみにきてくださって、ありがとうございます。

禅寺の庭の美しさや静寂さ、心地よさが好きな「寺女子」です。


装飾よりもシンプルな心地よさ、

マルチよりも真髄、

視覚的な脚色では現れてこない

本質的な質感に通じる感覚的な違いや味わいといったものが好きです。

 

一見するとフツウで何でもないようにみえるものが、

よく観察するとスゴいなーがわかった時そのギャップに魅かれます、

シンプルでも飽きないもの

いつどこでも邪魔にならず、

いつも新鮮でフレッシュな感覚が大好きです。


本物はあとに何も残さない、

本物はきれい過ぎない、

本物は装飾がない、

本物はシンプル、

本物は主張しないからさりげない、

本物は飽きない、

というのがシンプルな見解です。




 生まれてきて悲しみや苦しみの上で、
漫然と人が生きるとは本当はどういうことなのかな~という疑問から、
それが自然にテーマになりました。

子どもの頃は出家願望があったという、ちょっと変わった女の子でした。

やがて家族の死を機会に
真理に関する本などをいろいろと読んだりしながら、
2001年より瞑想や坐禅の研修会に参加して、
本当に知りたかった『本当の幸せ』というものについて徐々に理解が起こりました。

人が生まれて死ぬということの中で
『本当の幸せとはどういうものなんだろう』とか、
『人生苦しいのでなく幸せに生きられたらどんなにいいだろうか』という思いでずーっと過ごしてきましたが、
それがすっかりなくなってしまいました。
というのも、いま幸せだからです。



『本当に幸せ』であることは思考で理解できるものではなく、
体感・体験的な理解があって初めて知ることができるものなのだと確信しました。

 幸せとは言い方を変えるとしたら、
『心がラクになること』
『心がラクでいられること』
『ラクで、自然にたのしいな~がやってくるような感覚』だと思っています。

もしくは何にも気にすることがないこと。

(右脳的であり自我(エゴ)がなくなった状態)

深刻にならず、軽~く軽~く扱って
心から生きていてよかった~~と思えるようになること、
ラクでたのしくシアワセに生きられたら、
どんなに最高でしょうか。

 

いまここにある幸せからラクに生きることを選択したいものです。

誰もが今直ぐシンプルでラクに生きることができるのです。


感覚的にそういったことの理解が起こると、
理由のない幸せがずーっと続きます。


そしてそれは消えることがないです。


 

  

それは糸井重里さんや金子みすゞさんのこちらの言葉でも
なんとなく感じることができるものだなーと思っています。

  

いつか無くなるものを求めちゃいかんのだよ。
無くなるものは、求めるためではなく
そいつで遊ぶために、この世にあるんだからな。

ーセフティ・マッチの金の言葉よりー

 

 


 「蓮と鶏」

泥のなかから 蓮が咲く
それをするのは 蓮ぢゃない
卵のなかから 鶏が出る
それをするのは 鶏ぢゃない
それにわたしは 気がついた
それもわたしの せいじゃない

-金子 みすゞ-

 

   

そして、どうしても外せない糸井重里さんのことばをもうひとつ。

  

人はそれぞれに小さな公園だ。
木々があれば鳥が遊び、
笑顔があれば人が集まってくる。
公園を荒野にしてはいけないよ。

ーセフティ・マッチ氏、炉辺で語るー

 

  

 

  

わたし達はそれぞれに、小さな公園を居心地のよいものにして
色んな方々と交流して
さらにともに居心地よい時間や場を共にし
次第に、公園がやがて「杜」になっていく。

かけがえのない、みんなに親しまれ、
それぞれがなくてはならないものになっていく。
なくてはならないものだっと自覚していく。

あれ、いつの間にか、そうなっちゃった・・・、みたいな。

そういう時間を大切に味わいつつ、日々を生きたいものです。

 

 

 

 

 

 

本当の幸せについてをブログテーマの軸にして、
そのとき思いついたことを目的なく書き綴っています。

きっとこのブログを読むことになっている方の元へ届けれられることと思います。

 

                          

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