つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

おもかる石

伏見稲荷が外国人に人気であるということから、何やら「おもかる石」というのがあるらしいです。

 

石を持ち上げてみて、重いと感じるか、軽いと感じるかで、思いが叶うとか叶わないとかの占いのようです。

ちょっとシビアな見方になってしまいますが、思うにどちらにしても自分の捉え方によって、重い軽いが決まってくるのであれば、なにも石を持ち上げてみなくてもよさそうなものです。

しかし、もしよい利用の仕方というのがあるとすれば、石を持ち上げてみて、重いなー(軽いなー)と感じたならば、重い(軽い)という占いの結果に惑わされて一喜一憂するのではなくて、あー重さを感じてヤバいなと感じているなーーーーーー、とそこでオワリにします。その先についていってしまうと、ヤバい → イヤだ → 縁起が悪い・・・・・とかなんとかエンドレスで止まらなくなってしまい、もしかすると数日間このことで影響されるかもしれません。

石ひとつのことですと、笑って過ごせるかもしれませんが多かれ少なかれ、わたし達はそういったことを日常生活の中でたくさん体験しています。

 

仏教の大事な教え(智慧)の一つである「諸行無常 - Wikipedia」を知るというのことは、この世の中のすべては変化していくもので実体がないと理解することです。

つまり実体がないものに執着すると苦しみを生み出しますよ。

つまり実体がないものだから、いま問題だと思うものを悪戦苦闘して解決したとしてもまた次の問題がやってくる、くり返しですよ。
ということです。

かといって問題を放棄するのではなくて、やることは普通にやりますが結果を気にしないというスタンスです。

 

自我は目の前に起こったことを問題として捉えます。そしてその問題を解決するべく叱咤激励してきます。または人のせいにするかもしれません。

そもそもそれが仮に問題であるとしても、たくさんのエネルギーを浪費しながら、いのちを削ってまでも取り組む必要があるでしょうか。

また、問題としているけれども実は問題というのは自我が勝手にネーミングしただけであって、ただ起こっているだけだという見方もできます。

どちら寄りのスタンスをとるかによって、人生の重さ軽さは大きく変わってきます。

 

自我ができごとをどのように捉えるのか、いまどういう感情やどういう思考が出てきているのか、それをみている、それに気づいているということが日常の生活においての瞑想になってきます。

自我を観るという視点(観ている視点)のようなものがあるということを思い出すだけで、人生の感じ方も少しずつ変わってくるものと思います。

 

また、重いとか軽いとか判断しないということも大切になります。

禅のことばで「両忘」(りょうぼう)、「不思善不思悪」(ふしぜんふしあく)というのがあります。

いい悪い、軽い重い、そういった判断(相対的なものの見方)を忘れなさいということです。自我が中心のいい悪いといった3次元的なものの見方をしないでいるということも、先ほどの自我を観る視点というものとつながっているものです。

 

いい悪いといったものは本当はないものであると感じてみるページです。
どんな風に感じられるのか、実際に体験してみることで気づきが起こります。