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つながる 海と空と水の色

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところについて書き記しています。元来の幸せ感が実感できない時にわたし達は不安や不満になり迷い続けます。各々にもれなく備わっている本来の感覚に触れたり気づくことで充足されますが忘れてしまい様々な苦しみを経験します。その感覚は右脳で味わってみるとなんとな~く感じられるものです、右脳でほわ~っと読んでくださると新たな気づきがあるかもしれません。

ヤケを起こす、その先に

シンプル禅

糸井重里さんのコンテンツはおもしろくて、ちょくちょく覘いては、なるほどなーとか、へーとか、ふーむとか、いろいろあっておもしろいです。特に注意の向かった先がどうもリンクしている感じがして、つい口を挟みたくなってしまいます。

それで今日の記事ですが

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。ヤケを起こしたとき、見るノート」というのがありました。

一見、へーなるほど、おもしろそうー、ストックしておくといいかも、なーんて思っちゃうのですが、じつは然に非ずなんです。

大まかに不満からスタートした欲望とざっくりとまとめて説明しますが、例えばストレス ⇒ ヤケ食い だったら、それで終わらないんです。次々と欲張りになっていきます。今度はあれ、その次はこれと次々と続いていきます。挙げ句の果てには、あー罪悪感。なんて感じで締めくくりになったり、罪悪感ありつつもにエンドレスっていう感じになります。

不満が続くとストレスになりますが、それで「あーこの不満を解消したい」と外のものに求めても、それは決して解消されることはなく満足しないです。逆にさらに、もっともっとという欲望が膨らんでいってしまいます。

よくみてみると、不満になっているのは、自分がイヤだなーと思うものがあるからなのですが、その何かをされてイヤだなーとか、~がイヤだなーと思っている自我を観るのです、これは仏教の「観」に通じてくるものですが、そのイヤだなーという感情とかをそのまま観るのです。坐禅ではそういった、思考の流れというものを観照します。イヤだなーをみる、これはいわば、坐禅の日常版みたいなものです。

例えばですが、~が嫌いなんだなーっていうことをまず自分で気づくということです。気づかないとみることができないですね、そのうち慣れてくると気づく=観るが同じになっていきますが、最初はまず気づくことからスタートです。そして、その気づいた感情なり何かをいいとか悪いとか判断なしに、そのままをそのまま観ます。
受容というとちょっと行き過ぎた感じがしますが、個人差がありますので「受容」が自分にとってフィットするようであればそれでOKです。
その出てきた感情を自我は無意識で必ずジャッジしますから、それに反発して行動が起きてしまうわけです。過去の経験や遺伝的素質などから反応として出てきます。
例えば人からものをもらって使ってみたらそれは強引なセールスと変わりがなかったというような経験をした人にとっては、別の人から何の下心なく、ただものを贈られただけでも、その人は突き返してしまうか、その人を責めたり、口に出さないまでも不満が起こったりします。そういう時には、~がイヤなんだなーという行動の元になっている出てくる感情なりを観ます。
観るのがむつかしければ、そうだねー、そうなんだねー、それでいいんだよーとまるで小さい子どもに許可を与えるように頷きの対応をします。何回も出てくると思いますが、毎回すべて対応するのではなくて、できる時にするのがちょっとしたコツです。そして続けます。

すると一体どういったことが起こるのかここで教えてしまうと、ちょっともったいない(試してみるおもしろさが半減してもったいない)かもしれないですが、とりあえずそういったことをやってみます。

最初から上手にやろうと思うと益々ストレスになりますが、地道に続けていくと誰でも、ある変化の感覚があります。

というのは、ここで答えをあっさり披露してしまうわけですが・笑

それでいいんだーというような感覚や、あれーなにを問題にしていんだっけーとか、いままで必死にやっていたのがバカみたいとか、ウソのように軽くなったとか、そういう感覚になります。一瞬だけでもそういった感覚になります。

これは、瞑想や坐禅などをしても感じられる感覚になります。

 

なので、ヤケを起こしそうになったら、そこでちょっと待てよ。と。こういったこと誰かが言ってたなーからスタートです。
観るということは、よーし変えてやろうとか、観てやろうーとかではなく、力の抜けた、かる~~~~い感じでそのままをみるものなんだなーということが、続けていくうちに自然に体得されて(思い出されて)いくことと思います。