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つながる 海と空と青

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところについて、思いついたまま描き記しています。元来の幸せ感を忘れているとわたし達は不安や不満になり迷い続けます。万人にもれなく備わっている本来の感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさがあるだけです。

家庭でつくる料理って

2015/11/23 皆川明 × 糸井重里 トークショーのライブに参加しました。

 

 お二人のお話の場がとっても心地よくて、閑で、躍動感や、おもしろさといったものもあって、とっても刺激になりました。

 

対話の中で色々な引き出しから、こんな話あったんだというものが出てきたり、ミナ ペルホネン大好きなら知っているはずだけれどまったく知らなかったお話など・・いろいろ。
1時間半近くでしたから、かなりのボリューミーだったと思います。

 

なかでも糸井重里さんのお話で、
志村ふくみ - Wikipedia さんのシムラのきものと


ミナの皆川明さんの帯が

イタリア料理屋と和食屋に例えたくだりあって、それがとっても印象的でした。

「イタリア料理のプロが和食屋で料理しても、和食のプロがイタリア料理屋で料理しても多分あんまりなんだけど、ここは家庭。だからよかったのかもしれない」

「ここは家庭」というのは、ほぼ日刊の「TOBICHI」(飛び地)のことです。

 

TOBICHIのコンセプトについてはこちら。

 TOBICHIはつまりほぼ日の糸井重里さん提供の、ひとつの場だと思うのですが。

 

そのポジショニングにとってもひかれます。家庭であるというのは、あざとかったり、上手くあってはいけないはずなのです(個人の意見です)。あくまで先入観のない素人だから、発想したり、できること。色々と知識を身につけると決してみえなかったり、できないところのものです。

さらにお金に関して感じたことですが「家庭」であればメインの目的は商売でなく、利益というのは副次的に発生するスタンスになるのかな。大儲けでもなく、損でもないはず。そのあたりのバランス感覚がなんともいいなー。かといって同じようなことができる才能はないですが。

こういったちょっとことばにするのがムツカシイようなニュートラルな感覚によさを感じるのはマヤのキンナンバーが共通するところからなのかどうかわかりませんが、本当にそういうところでいたいとあらゆる時に感じられるところなんですねー、不思議です。

 

禅的には作為のないところ、あるいは学んだ知識を落としたところ、といえるかもしれません。

 

禅では、一旦得た知識や体験(悟りや悟ったわたし)を落として落として、落とすことも落として、さとったわたしもなにもない、こそが本物の悟りといわれます。

「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず、悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」といわれます。

 

そういえば家庭料理って上手いとか下手とかないでんですよね。

お二人ともお料理されるということでしたが、わたしも無意識に家で食べる家庭料理。つまりじぶんで作る料理は、じぶんの好きなものを作るのでやっぱり落ちつくおいしさなんですよね。アウェイ感の強いきちんとしたプロのお店の料理とは比較することができない、なんとも上手か下手か評価のつけようがないホームグラウンドのようなウチの料理をつくっている時や食べている時は、知らない間にものすっごい滋養になっているのだなーと、先ほど「チキンときのこのレモンクリームソース煮」をつくりながら気づくことができました。

基本的に素材重視派というのもあって、おウチでつくる料理はできる範囲で素材だけで旨いなーと感じられるようなものを簡潔に使うようにしたいので、手が込んでいない割にかなりおいしいもの、というのが好みで、その通りにおいしくなります。

「食」は生活に密着してて入りやすいですし、毎日のことなので、意識してみてみると色々なことも気づくことがあります。
お料理する時や食べる時は五感に密着しているので、その時々の心地よさもきっと感じられやすいものなんだろうなーと思います。

 

その時にじぶんが食べたいものをつくって食べられるのは何とも幸せだなーと思います。だれかの為に黒子に徹してつくるのもいいのですが、そればかりだとやっぱりダメなんですね、力が出ません。
食べたいものを誰かと一緒に食べることを通じて、一人よりもさらにおいしいというのが理想の形です。


シチューのおかわりを平らげて、からだが温まって、こころの温かさもあって、例えじぶんであっても手づくりのおいしいものは妙な力があるなーとひしひしと味わうことになったのでした。

 

 

 

そして、こちらのletterもいい感じなのだなー。