つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

無駄なことは、本当に無駄なのだろうか

やっても得にならないことや、骨折り損のくたびれもうけだとか言われること、無意味なこと、は思考からみたらとっても嫌いなものです。

そういったものは、なるべく避けて、簡単に、効率よく、得になることの方が断然心地よいです。

 

では、無駄なことって本当にダメなのかというと、はてさて・・。

空を飛ぶ鳥って、別にいつも餌を探しているわけではないだろうし、無駄なことしてるとは誰も思わないと思う。

そうそう、イルカなどは遊びの天才かもしれないし、遊びの波動そのものである気がする。

遊びは、遊びそのものが目的であって、無駄だからこそ意味があるという、損得からみればとっても稀で、損得から外れた典型的なものだと思う。

もしも遊びに結果を求めると、それは遊びではなくなるし、遊びを目的にすると楽しくないはず。

そうだとするなら、なにかをする時にすべて遊びとしてみたらどうだろうか。

社会的に遊びという言葉を使ってしまうと語弊があるかもしれないし、誤解されてふざけているようにみられるかもしれないけれど、元々それをやったから絶対幸せになるというものや、やらなかったら絶対に不幸になるというものはこの世に存在しないものだから、それぐらいの軽さでいると、ホントに人生は楽しく感じられてくる。

 

 

禅語に「擔雪塡古井」というものがあります。
禅のなかでも最終段階に匹敵するであろう、なかなか真の意味を理解しがたい言葉です。

禅語に親しむ

 

これなどは、遊びの典型ではないだろうか。

井戸の中に雪を埋めていくようなことというのは、大概の人は嫌がり、多分やりたがらないことだと思う。エゴや思考で考えると確かにそうなのだけれど、では本当に無駄なのかというとそうとも言い切れないところがある。

無駄なことと決めつけてしまうから、無駄になるのかもしれないけれど、ただやっているだけだったり、結果を求めなかったり、意味を考えなければ、ただやっているだけで満足なものになる。

子どもは遊びの天才といわれるけれども、落書きして何の意味があるのかとか考えないし、遊びでつくりあげたものを壊されても多分別に気にしない、そんなことができるのが遊びの本質なのだと思う。

 

大人になって知恵とともに損得を考えるようになると、ただの遊びができなくなって、遊びといいながら遊びとは程遠い遊びになってしまいがち。

 

損得や、目的、意味、結果を求めなければ、すべてが遊びに通じることに違いないはずである。

 

禅は、どこまでも深くておもしろいのだなーと、そしてシンプルで、万能で、日常の暮らしに結びついた真理だなと思う。

 

悟りも悟りを目的にしないでいると、それがそのまま悟りとなるものである、ということもやがて理解されることと思います。

 

 

 

イルカの遊び心たっぷりのこちら、かわいいです。