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つながる 海と空と水の色

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところについて書き記しています。元来の幸せ感が実感できない時にわたし達は不安や不満になり迷い続けます。各々にもれなく備わっている本来の感覚に触れたり気づくことで充足されますが忘れてしまい様々な苦しみを経験します。その感覚は右脳で味わってみるとなんとな~く感じられるものです、右脳でほわ~っと読んでくださると新たな気づきがあるかもしれません。

愛と自由

徒然エッセイ

お昼の時間帯にテレビを鑑賞できる環境にあるので、
何年ぶりでしょうか、昼ドラにくぎ付けになりそうです。

小沢真珠さん主演の放送の頃(12年前だそうです)は全然興味もなくスルーだったのですが、いまはドロドロとした様子が逆に興味もあって新鮮に感じられます。

 

前置きが長くなりましたが、今日第6話の中でのセリフに「愛すれば愛するほど自由を奪われる」(愛は自由を拘束する)というのがありました。

 

そうなのかなーー。

いやいや確かにそうだと思いながら、なにか違うんだなーという気がします。

個人的な愛というのは、確かに相手を手に入れたいとか、
相手を思うように動かしたいとか、
相手の為に自由を犠牲にしなければならないとか
になってしまうに違いないのですが、
いやいや・・・、
というと愛と自由は同時には存在できないという公式になります、
いや、そんなはずはない、
そんな風にならないものがどこかに必ずあるはずだと思うのです。


確かに個人対個人という範囲でみると、
愛とは束縛したり、束縛されたり、
いいなりになったり、尽したりということになるのですが、
もっと広い範囲・広い意味に捉え直すと、
そういった愛を得るとか愛を与えるという概念はなくなってしまいます。

愛する誰かが自分の方を向いてくれたり得られたら幸せというのは、
個人的な自我の小さな愛の範囲であって、
もう少し広い愛の範囲では、愛する相手が幸せになってくれることがホントの意味での愛だと思うのですよね。
なので、例えば憧れていたスターが結婚するなんて場合に、
「おめでとう」といって心から喜べるようなファンのような在り方が本当の愛であって、
なんで結婚するんだよーって愚痴っているようであればちっちゃな愛でしかないというような違いだと思うのです。

だから、結果的に「愛と自由」というのは同時に存在できるのが本当であるはずなのだなーと思うのでした。

 

そして禅的にどうなのかなというと、
その愛のかたちも思うようにならなかったら、
それはみえない神という存在の愛の表現(かたち)であるし、
自我の想定を超えた大きな愛のかたちであるのだと確信できるし、
ただ夢のように消えてなくなるような出来事のひとつでもあるし、
なにも問題はないし、
あの心地よさがあるだけ、ということです。