つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

愛と自由

小沢真珠さん主演の放送の頃(12年前だそうです)は全然興味もなくスルーだったのですが、

いまはドロドロとしたドラマが逆に新鮮に感じられます。

 今日第6話の中でのセリフに

「愛すれば愛するほど自由を奪われる」(愛は自由を拘束する)

というのがありました。

 

そうなのかなーー。

いやいや確かにそうだと思いながら、なにか違うんだなーという気がします。

個人的な愛というのは、確かに相手を手に入れたいとか、

相手を思うように動かしたいとか、

相手の為に自由を犠牲にしなければならないとか

になってしまうに違いないのです。

それは「渇愛」の愛です。

 

渇愛からの愛では、

自由と愛は同時には存在できないという公式になります。
でも違う愛もあります。

そんな風にならないものがあります。


個人対個人という相対の範囲でみると、

愛とは束縛したり、束縛されたり、

言いなりになったり、

尽したりということになるのですが、

もっと広い範囲から見据えると、

愛を得るとか愛を与えるという概念はなくなってしまいます。



愛する誰かが自分の方を向いてくれたり得られたら幸せというのは、

個人的な自我の小さな愛の範囲であって、

もっと広い愛の範囲では、

愛する相手が幸せになってくれることがホントの意味での愛かな思うのですよね。

 

なので、例えば憧れていたスターが結婚するなんて場合に、

「おめでとう」といって心から喜べるようなファンのような在り方が本当の愛であって、

なんで結婚するんだよーって愚痴っているようであれば

ちっちゃな愛でしかないというような違いだと思うのです。

 

なので「愛と自由」というのは

同時に存在できるのが本当であるはずなのだと思うのでした。

 

禅的にどうなのかなというと、

その愛のかたちも思うようにならなかったら、

それはみえない神という存在の愛の表現(かたち)であるし、

自我の想定を超えた大きな愛のかたちであるのだと確信できるし、

ただ夢のように消えてなくなるような出来事のひとつでもあるし、

なにも問題はないし、

ただ心地よさがあるだけ、ということです。