つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

探究のひとつのやり方

禅の悟りや、真理に至るのに、具体的な気づきのもとになるのが、「わたし」というものが本当にあるかどうかみていくことです。

 

わたしというのをみていくのに、日常生活の中でとてもやりやすいのが、「わたしが・・・(行為する)」と、

「わたしの・・・(所有)」の、両方を放棄する、というやり方です。

つまり「わたし」の行為と所有というものがなければ、一切はただ起こっている、ということが、体験や感覚の理解が起こります。

 

無意識でいると、何でもやるのは「わたし」がくっついていますし、

ものに限らず、何か起こったことも「わたしのもの」としてしまいます。

そこから苦しみが生まれます。

最終段階では、「わたし」というものは元々なかったという理解が起こりますが、

日常の中や坐禅で、わたしの所有、わたしの行為、に絞ってみていきます。

 

シンプルにいうと、何ものも自分のものとしないこと、ということです。

 

なにか苦しい時には、必ずこの2つ(所有と行為)のどれかが介入しています。そこに気づいたら、あーやってるなーとわかります。

そこで、あーやってるなーと戦わないことです、まるで映画をみてるような距離感でやってるなーと、(そのままでいいんだよーという感じで)みます。この、そのままでいいんだよーという状態は、最初からできないですがどんどん続けていくとやがて何回に1回ぐらいできてきます、そしてそれを続けていくとまたできます。瞑想や坐禅というのは、観るという、そういった質を育てていくような感じです。

 

 

ブッダの言葉のなかに、
「行為はあるが行為する人はいない」というのがあります。

からだは動いているようにみえますが、そこに「動いている人」というのはおらず、ただ動きがあるだけです。

全体の気づきからみると、ただ起こっているというだけです。

そして、ものごとはすべて起こるように起こっているだけ、というのが自動的にわかります。

もし苦しいなーとか、痛いなー、というのがあっても、苦しんでいる人はいないし、痛がってる人もいないです。

反応の感覚として、ただ苦しいなーがあるだけ、ただ痛いなーがあるだけです。

できないこと、わからないこと、やったこと、苦しみも、痛みも、わざわざ「わたし」をつくって、自分のものにしないということです。

自分のものにしちゃってると自動的に苦しかったり、痛みがあって気づきます。

あーまた自分のものにしちゃったーと、そこでまたガッカリしても、観ていくことをたんたんとくり返していくのみです。

禅は、それだけシンプルです。

  

 逆にいうと、これは日常の生活の中で実際に葛藤や、苦しみや、痛みが起こった際にみるチャンスが訪れるという見方にもなります。

 

ラマナ・マハルシの言葉に、
「人が不幸から逃れたいと思うのは、それが本来の姿ではないから」というのがあります。

幸せな状態が本来であって、不幸とは幸せが何かによって感じられない状態ともいえます。

「わたし・が」や「わたし・の」つく、持ちもの、名前、思考、したこと、すること・・・・すべてなくなると、なにが残るでしょう。

それが変わらずに在りつづける本質なのです。