つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*坐禅している「わたし」は誰ですか

坐禅や探究を始めて間もなく多くの方々は、

こんな質問がやってくるのかと思います。

坐禅をしているわたしとは一体誰ですか?」

 

じつは、とっても深いです。

ことばで表せないんです。

それで、

「さあー誰でしょうー」とこたえると、

質問した相手は、

意地悪されたと感じる方もいるみたいです。

 

この質問のこたえがわかるのに、

禅を学んで実践しているのかもしれません。

 

 

質問が質問自体のこたえになっているんです。

 

できないで悩んでいる「わたし」って、どこにあるのだろう。

 

ひどいこと言われて落ち込んでいる

「わたし」はどこにいるのだろう。

 

禅を学ぶ手始めに湧いてくる質問、

この「わたしとはいったい誰か」というものが

 やがて、

「わたしってどこにあるのだろう」となり

最後の最後、

卵の殻に張り付いた薄皮のようなものを剥がすような

真実へ連れていってくれるものとなります。

 

 ただこの質問はたまにするもので、

頻繁に問うと、

どうしても思考のルーティンになってしまって

気づきというのが起こらないままになります。

 

たまに、そういえばふと思い出したけど

「この感情と戦ってるわたしって誰なんだろう」と問うたりして、

その時に、すーーーーーーーーっとした心地よさのような

そんなことなんにも考えないところに触れると

騒いでいた思考がしずかになり、

また

何も問題ないじゃないか、という気にもなり、

とても安心した感覚になったりします。

 

探究はとてもシンプルで

この目の前の現象について

「なにも問題ないじゃない」という感覚を

まるでからだの筋肉をつけるように

からだに染み込ませていくような流れです。

 

最初は感じられにくいかもしれませんが、

100回に1回感じられたりします。

それが50回に1回とか、10回に1回とか

折れ線グラフのように感じられたり感じられなかったりしながら

流れていきます。

そこで、あーうまくいってるなーとか、

今度はダメだーとか、

思考はささやいてきますが、

それも思考の決まりごとなので

それはそのままにして、

続けていきます。

 

「思考を払わず、悟りを求めず」です。

 

そうすると、

不思議になことに感じようとしなくても

あれー、ふとした時に

もう感じられていることが起こったりします。

 

そんなことをくり返し、くり返し戻り、

くり返しながら、

日常の中で色んなことから、取り組んでいきます。

 

 

また感謝も、この感覚がとても感じやすくなります。

 

禅の探究は深くておもしろいなーと思います。

必死になってがんばったところで、

残念ながらこの感覚には至らないです。

 

結果を求めずに、

いまここに在るもの、それを味わい、

真摯に取り組んで続けていくと、

必ずなにか新しい発見があり、

新しい気づきが起こってくるものです。

 

そんなことが起こることも忘れているぐらいの時に起こったりします。

ホントに意地悪かもしれませんね。

 

いたずら好きなんですね、きっと。