つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

掘り起こし「白隠禅師『般若心経毒語註』から 2014/10/26」

般若心経毒語註

 

般若心経にむかって白隠禅師(白隠慧鶴 - Wikipedia )が毒語(毒舌)を吐かれた本が「毒語心経」です。
毒舌というといかにもいやしい言葉ですが、誉めようにも誉める言葉がないから悪口を吐かれたのです。

 

 「般若心経毒語註 」ー山田無文 - Wikipedia 著ーからの引用です。 

 

 

みるもの聴くものがすべて新しい、すべて美しい、

すべてをそのまま仏とみていける、

そういう心の眼が開けることが悟りということであります。

 

お互いは何をみても、過去の経験でみているのであります。

「あれは松の木だ」、

「あれは梅の木だ」、

「これは牡丹だ」、

別に珍しいとも考えず、常識的にものをみて片づけてしまいますが、

それは過去の記憶でものをみているからであります。

 

過去の記憶を全部捨ててしまって、

新しい眼、きれいな眼でこの世の中をみていくならば、

すべてが真実、すべてが美しい。

そういう心の眼が開けることが、

般若の智慧がわかるということであります。

きれいな眼が開けるならば、

「当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり」で、

この世界がこのままお浄土であり、

めいめいがこのまま仏様であります。

 

人をみるのでも、

「あの人は根性の悪い人だ」、

「あれは意地の悪い奴だ」、

「あれはもの覚えの悪い奴だ」、

そういう過去の記憶で人をみるから、

どうしても真実の人をみるわけにはいきません。

 

三日も会わなければ、人間はどう変化しておるかわかりません。

三日前の考えで、相手をみるな、

新しい眼で相手をみてやれということです。

 

初めて聴くようなきれいな心で聴くならば、

漁師がうたう歌も山の木こりのうたう歌も、

それがそのまま「羯諦羯諦」の呪文と同じじゃ。

仏様のお言葉じゃ。

鳥の声を聴いても、

「あれは雀だ、やかましく鳴いておる」、

「あれはカラスだ」と、

経験でものを聴くから、常識的な世界に捉われますが、

きれいな心で初めて聴くような感激で聴くならば、

うぐいすの声がそのまま仏の声、

つばめの鳴き声もそのまま仏の声であります。

 

そういう心の眼が開けるならば、

「お陰さまでございます」、

「結構でございます」、

「幸せでございます」と、

「日々是れ好日」と毎日を喜んで日暮しできるはずであります。

お互いは毎日、朝から晩まで何かを考えております。

夜寝てからも、眠れんほどです。

けれども、頭で考えておることは皆ウソですよ。

皆役に立ちませんよ。

済んだことをなんぼ考えても、どうにもなりませんよ。

「あんな憎いことをいう」、

「あんなひどいことをいう」、

「三年前に金を貸してやったが、まだ返しよらん」

と過去を考えても仕方ありませんよ。

 

済んだことはさっさと忘れなさい。

未来はまだこないのだから、

未来を空想しても役に立ちませんよ。

 

済んだことはさっさと忘れたらいい。

未来は想像しないで、今。

今という時間には苦しみもなければ、災難もありません。

そして、

いつも鏡のように何もないきれいな心でおれば、

一切の苦しみ、災難から救われることができ、

耳に聴こえる声はすべてそのまま、

仏様のお声と聴くことができますよ。