つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところを記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

なにかのせいにする、ということ

もしも

なにかものごとがうまくいかない(思ったように進まない)とき、

つまり、思い通りにならないようなとき、

なにかのせいにしていませんでしょうか。

例えば、あの人がこんなことを言ったから、とか

自分がこんなことしなければ、とか、誰かのせいにしたり。

 

朝いちばん出かける矢先に足先をテーブルにぶつけたり、とか

この道を通ると気分が悪くなったりする、とかだと

これは厄年のせい、はたまた浄化が足りない・・・

となにかのせいにしたり。

 

思考というのは、こうやってなにかものごとが起こったときに

そればっかり考えてしまう傾向があります。

なになになのは、なになにのせい。

起こったことに、どういう意味や原因があるのか。

 

瞑想や坐禅においては、

浮かんでくる思考に対していちいち考え出すことは放棄します。

浮かんだ思考に対して、

思考が浮かぶことが、よいとも悪いともせず

ただ、あーー思考があるなーとだけという見方をします。

 

つまり

色々なことがあっても、

一旦棚上げしているといってもいいかもしれません。

思考は優先順位が高い大事なことであると思うことほど、

なかなかそういった棚上げをすることが上手にできません。

このことについてはいいけど、これだけはいい加減にできない、ということが大概いくつかはあるものです。

 

そして結局は

思考に巻き込まれるか、

一旦思考から離れることができなくて苦しむか

そういったくり返しをしてしまいます。

 

なにか起こったときに、

それをなにかのせいにしないで

それがいいこととか悪いことだとか考えないで

「ただ ものごとが起こったと」という見方もあります。

他のことは一切無視した利己的とは違うところでの「ただ」です。

 

禅では「ただ」という言葉はよく使われます。

その「ただ」というのは、

色々な意味があって、内容も深いです。

「ただ」というのはシンプルにいうと、

「期待しない」

結果を期待しない、相手に期待しない、成果に期待しない

「作為しない」

画策しない、損得のない、

ということでもありますが、

もっと身近な「ただ」というのもあります。

 

それは言葉通り「プライスレス」なもので

なんだと思いますか?

 

無償のボランティア・・・?

まごころ・・・?

無条件の愛・・・・?

 

色々思いつくかと思いますが

それがないと生きていけないんだけれども

46時ちゅう与えられていて、お金が一切かかっていないもの

ダントツは、・・・

「空気」です。

そして広い意味では「水」や含まれるだろうし、

見方をかえると「大自然」といういい方もできます、

そして

わたしたち自身の「からだ」も無償でよく動いて働いてくれます。

手足に限らず、感覚器官や内臓や細胞も休まず動いています。

また、宇宙からみると、

わたし達の「からだ」も自然のひとつでしかありませんし、

「からだ」は小宇宙、という表現もされます。

 

ちょっと脱線してしまいましたが、

まとめますと

「ただ 起こっている」とか

「ただ やっている」とか

「ただ そうなんだ」というように

「ただ」の守備範囲が日常生活においても広がって、浸透していくほど

自我の感覚が少なくなっていきます。

それはまた無責任というのとははっきりと違います。

 

実際にやってみて続けていくと、

徐々に実感できてくる坐禅や瞑想ならではの感覚です。

 

シギと人生というのはラクになっていく、

つまり、穏やかでとっても安心してなにがあっても幸せであるなーと

感じられるような心もちになってきます。

 

 

ま・と・め

思い通りにならなくて

苦しかったこと、辛かったこと、

思考の激戦になったりという、

どうにもならないことを

なにかのせいにしないというモード

(つまり、あるがままでOK)がでてくると

人生が驚くほどシンプルになり

理由のない幸せ感が訪れてくることと思います。