つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*なにかのせいにする、ということ

もしも

なにかものごとがうまくいかない

(思ったように進まない)とき、

つまり、思い通りにならないようなとき、

なにかのせいにしてないでしょうか。

例えばあの人がこんなことを言ったから、とか

自分がこんなことしなければ、とか、

誰かのせいにしたり。

 

出かける矢先に足先をテーブルにぶつけた、とか

この道を通ると気分が悪くなったりする、とか

これは厄年のせい、

はたまた浄化が足りない、とか

となにかのせいにしたり。

 

思考はこんな風になにか不都合が起こったとき

そればっかり考えてしまう傾向があります。

なになになのは、なになにのせい。

起こったことに、どういう意味や原因があるのか。

 どうしてこんなことが起こるのか。

どうして、どうして

どうしてダメなのか、とか。

 

禅は浮かんでくる思考に対していちいち考え出すことは放棄します。

浮かんだ思考に対してはフリーパス、

思考が浮かぶことが、よいとも悪いともせず

ただ、あーー思考があるなーとだけ

という見方をします。

 

つまり色々なことがあっても、

一旦棚上げしているといってもいいかもしれません。

思考は優先順位が高く大事なことであると思うものほど、

なかなか棚上げをすることができません。

このことについてはいいけど、

これだけはいい加減にできない、

ということが大概いくつかはあるものです。

 

そして結局、思考に巻き込まれるか、

一旦思考から離れることができなくて苦しむか

そういったくり返しをしてしまいます。

 

なにか起こったときに、

それをなにかのせいにしないで

それがいいこととか悪いことだとか考えないで

「ただ ものごとが起こったと」という見方もあります。

他のことは一切無視した利己的とは違うところの

「ただ」です。

 

禅では「ただ」という言葉はよく使われます。

その「ただ」というのは、

色々な意味があって内容も深いです。

「ただ」というのはシンプルにいうと、

「期待しない」

結果を期待しない、相手に期待しない、成果に期待しない

「作為しない」

画策しない、損得のない、

ということでもありますが、

もっと身近な「ただ」というのもあります。

 

それは言葉通り「プライスレス」なもので

なんだと思いますか?

 

無償のボランティア・・・?

まごころ・・・?

無条件の愛・・・・?

 

色々思いつくかと思いますが

それがないと生きていけないんだけれども

四六時中与えられていて、お金が一切かかっていないもの

ダントツは、・・・

「空気」です。

そして広い意味では「水」や含まれるだろうし、

見方をかえると「大自然」といういい方もできます、

そして

自身の「からだ」も無償でよく動いて働いてくれます。

手足に限らず、感覚器官や内臓や細胞も休まず動いています。

また、宇宙からみると、

わたし達の「からだ」も自然のひとつでしかありませんし、

「からだ」は小宇宙、という表現もされます。

 

まとめると

「ただ 起こっている」とか

「ただ やっている」とか

「ただ そうなんだ」というように

「ただ」の守備範囲が日常生活において広がって、

浸透していくほど

自我の感覚が少なくなっていきます。

それはまた無責任というのとははっきりと違うのです。

 

実際にやってみて続けていくと、

徐々に実感できてくる感覚です。

禅に取り組んでいくと

シギと人生というのはラクになっていく、

つまり、

穏やかでとっても安心してなにがあっても幸せであるなーと

感じられるような心もちになってきます。

 

 

ま・と・め

思い通りにならなくて苦しかったこと、

辛かったこと。

思考の激戦になったりという、どうにもならないことを

なにかのせいにしないというモード。

つまり、『あるがままでOK』がでてくると

人生が驚くほどシンプルになり

理由のない幸せ感がふいっと訪れてきます。

バーンとくるか、

ふいっとくるか

ちょこちょこくるか、

訪れ方は人によって違いがあるようです。