つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*なんにもないシアワセ

なんだか・・・・妙にシアワセ~っていう感じは、

誰でも感じることがあるのかな~と思います。

気持ちよく晴れたお天気のよい日とか、

今日もそうです。

もう充分シアワセだなーーっていう感じ。

 

ほどよい温かさと心地よい疲れの時に、

寝てはいけないけどこのまま眠ってしまいたいような、

起きなきゃーと寝たいーのせめぎ合いのような。

でも、このままウトウトが幸せ~だから

お布団に入らなくて、

このままうたた寝を続けたい時。

 

お酒の好きな方だったら、

温かい部屋でお酒をたしなんで、心地よーくなった時に、

思わず本音でしゃべったり、

普段しないことをなんにも気にしないでやっちゃったり、

大声で笑ったり・・。

そのあと、眠くて眠くて仕方ない、その瞬間。

そのときは、多分なにも考えられないと思います。

明日、

なにかで不安なことをしなきゃいけない予定があったりしても、

そのことについてまったく考えることなく、

そのまんまでシアワセ~。

うとうとがシアワセ~。

 

そんな気持ちのよさは、

誰でもほんの少しでも経験したことがあるかなと思います。

それを意識するかしないかで、

経験していたことがあるかないか

認識できる機会もちがいます。

 

そのうとうとした感じこそが、

覚醒状態に近いといわれています。

 

心地よい眠りに入る寸前のほんの何秒か、

目覚める時にも気づくことができれば、

ほんの0.3秒くらいはあると思います。

またお昼寝をする方は、その折にも・・・。

 

その時には、

ほしいものが手に入ったとか、

嫌いな人に会わなくてよくなったからとか、

なんらかの外部からの環境に影響されることもなく、

なにかを得たとか失ったとかという意識もなく、

なにか理由があるわけでもないのに、

ただシアワセがあります。

それは無意識に起こる幸せな感覚です。

 

瞑想や坐禅を続けていくと、

その幸せな感覚に自動的に意識が合うようになってきます。

 

能動的にそういった幸せな感覚に触れていく、

合わせていくことが起こってきて、

とうとう触れていく「わたし」というものが

最初からなかったのだという気づきが起こったりします。

 

瞑想や坐禅に限らず、

人生のなかで色々なことが要因で

幸せだな~と思う瞬間は少なからずあるかと思います。

それも、またよしです。

 

瞑想や坐禅というのは、ある意味特殊で、

そういった出来事や、

物事の結果や、

持ちものの多い少ないなど、

色々と目にみえたり、

名前のつけられるもの(お金とか、友人とか・・)が、

あるとかないとかにまったく拘わらず

シアワセだな~と感じられるようになるものです。

 

得ることで幸せになるということしかできない思考にとっては、

とっても難しいことに思うかもしれませんが。

 

坐禅や瞑想を続けると

もともと最初から幸せであったということがわかってきます。

熟睡・爆睡のときには、

なんにも所有していないですが、

目覚めたときに、あースッキリしたというように、

とっても充実した感覚があります。

そういった感覚が覚醒状態に近いしあわせな感覚です。

 

理由のないシアワセな感じというのは、

思考にとってはまず理解できないことですが、

思考のないところではいつもシアワセな感覚が溢れています。

そこへちょこっと意識を向け直す感じとでもいうか・・

 

そんなところで最高の幸せ感をいつでも、

どこでも、お金もかからず、

状況に関わらず、味わえるのですから、

ちょっと試しにやってみようかな~というノリであっても、

深い幸せ感の入口になることは間違いないのです。