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つながる 海と空と青

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところについて、思いついたまま描き記しています。元来の幸せ感を忘れているとわたし達は不安や不満になり迷い続けます。万人にもれなく備わっている本来の感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさがあるだけです。

「知足」というのは自由意志

生活をしていると、やはり、こうしたいけどならない、ということが多かれ少なかれあります。

例えば、なにかを食べたいけど、なにかの理由で食べることができないこともそうですし、
なにか(お金でも友人や、成果や承認、愛情などが)欲しいけど、なかなか思うようにならないなどもそうです。

そこで「知足」と思おうとしても、なかなか思えないとします。
「知足」は、思考で思うのではなくて感じるということがポイントになるのですが、それもなかなか感じられないことがあるかもしれません。

「知足」と思うことが本質へ向かう道なのだから、思えなくても思うべきだとか、感じられなくても感じるべきとなってしまうと、かえってややこしくなります。
「知足」は大事だけれども「知足」に捉われて、かえって苦しくなります。

*すべてにおいて
大事なもの、優先順位の高いもの、価値をおいているもの、こだわり、
に捉われたり、偏ったりしてしまうと苦しくなります。
逆にいうと、苦しい時は何かにこだわっているときです。*

 

もしできなければ禅的には、あー足りてると思えてないなーとか、あー充分と感じられないなーと、みる(観る)ことです。
みれない度に、みていきますと、「知足」という概念から離れることが起きます。

できないことをいつまでも、「できないなー頑張んなきゃ」とか、「できないなーなんでだろう」、「できないなーこれはなにかのメッセージだろうか」とか、いろいろと理由を考えてみてラクになったり、捉われなくなるのであれば思考を使うことは適してると思いますが、大概は思考を使い出すととまらなくなって、次々に思考がつながっていき、いつの間にか膨らみ過ぎて、苦しくなって迷宮に入ってしまいます。

「観る」ということが一番シンプルなのですが、それにこだわって苦しくなるよりは、違うやり方でしのぐというのがラクです。

なにが嫌いで、なにが好きか、なにがやりやすくて、なにが苦手か、
それは人によって千差万別です。
そのまんまを自分にあてはめてやってみて、できないことで苦しむよりも、
やってみることは大事ですが、やってみてダメだったら、そこから自分なりにラクになるようにやってみることも大事です。

「工夫」というのも、禅のことばです。

例えば斎藤一人さんのお話にある「ゆるします」というのも一つの手です。
なにか人を許せなかった時に、「許せない自分を許します」と言葉に出してみるのです。思い入れが強いとなかなか言葉にさえ出すことができませんが、小さなひと言からでも言えるようになると、次第に変化が感じられて、辛さから解放されたりしますよ。 

思考の智恵を使ってもよし、思考を観てもよし、要はやり方やコトバ尻に捉われない、本当に自分にとってのラクで心地よいやり方でいること、これが最良のやり方に違いないです。
思考にも知足にもやり方にも、こだわりがないシアワセです。

 

禅のベースにある、思考ではなくて感じることというところは見据えつつも、日頃のできごとから自分なりにラクになるやり方を決めつけずに柔軟に選んでいくのが大事と思います。

 

「知足」は禅のキーワードですが、感じようとか、知ろうとするものではなくて、自ずから湧いてくるというか、「もう充分なのだなー」とやってくる感じのものです。

なにか行動していても、なんにもしていなくても「充分だなー」とか「ありがたいなー」とか「しあわせだなー」という感覚が、やってくるとしたら、それはその時にどんな風に過ごしていようと、まさにいまに在ることであり、なにをしていてもこれ以上もこれ以下もない、そのまま、あるがままのシアワセです。

「あるがまま」でシアワセというのは、これ以上ない基準でのシアワセレベルです。
思いが叶った叶わないということに左右されないシアワセです。

 

やり方にとらわれず、感覚にフォーカスしつつ、忘れたらまた思い出して、それをくり返しながらちょっとずつ続けていくというのは、ほんの微差ではあるけれども、人生の長い時間を通してずーっと続けていくと、大きな違いになります。

 

忘れずに、たんたんと。忘れたら、また思い出して戻る。

そして
できなかったことや、できないこともちょっと楽しみながらという姿勢が、禅が日常に溶け込んで役立ってくれる秘訣かと思います。