つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*がんばらない勇気

さきほどまで「無」について書こうと思っていたのですが、

ふと思いつきで

違うことについて今日は書いてみたくなりました。

がんばらないことについて・・・

 

儒教の伝来や古くから日本の教育方針などによって、

がんばることがよいこと、

優れていること、模範となるように

環境がそうであったりセッティングされてきました。

がんばることや努力というのは、

ことばから感じるニュアンスは人それぞれ違うと思いますが

なにかいまの自分よりもステップアップする為とか

骨を折って、とか

自分を削って、とか

いかほどか、

力の入っているニュアンスに感じられます。

 

期待どおりに

ちょっとムリしながら、がんばってしまうと

違和感があります。

周囲の期待や状況によってそうせざるを得ない場合もありますが

できることなら

がんばることを楽しんでやってみるというのも

ひとつの手だと思います。

そうなると

力がふっと抜けて、自然に行えるように向かえます。

 

また、がんばりグセある方。

つい、がんばっちゃうというとことに、まず気づくことが大切です。

リミッターのメモリは、これも人それぞれ違うので

他からこれぐらいはフツウだろうと思われても

自分のみえないところの感覚に気づくことが大事です。

自分はつい、がんばっちゃうという認識があったり、

がんばってることを自覚することも大事です。

このリミッターは、みえないものなので振り切ってしまうと

あとから修復するとなると大変だったりします。

 

がんばりグセは大いに結構です、問題ではありません。

その時に、「こころ」というか「からだ」からの声を

少しきく余裕をもってあげてください。

そして今までだったら、がんばっちゃう流れだとしても

少しだけ、がんばらない勇気をだしてみるのもおすすめです。

がんばって、振り幅を余裕で振り切って、

あとでシンドイ思いをすることを経験したり学んだならば

ちょっとだけ、がんばらない勇気を実行してみるのです。

その時にどうなるのか・・

それをよく観察してみましょう。

想像してたのと違って、意外と大丈夫だったり

その方がよかったりするケースもあります。

 

また、

がんばることはしないのも大いに結構で、問題ではありません。

 

 

禅では

がんばってしまうと本来の感覚は感じられにくくなります。

がんばる相対の「わたし」と一体になってしまうのです。

始め立てや習いたての時は、自動車の運転の要領と同じで力が入ってしまい

ドライブしている心地よさというものを感じられないです。

ですが何度も続けていると

自分が運転しているという感覚は薄くなっていることと思います。

 

がんばりグセのある人には、がんばらない勇気を。

がんばれないでいる人は、

今までがんばってきたぶんお休みが必要なのかもしれません。

がんばらないでいいよーと言ってあげると、

勝手に始まったりします。

 

要は

がんばること、がんばらないこと、どちらにも捉われず、

そのときの状況を俯瞰してそれを眺めていたいものです。

それは「観」に通じます。

 

 くれぐれも、

いまのままで充分だわーという感覚でいながら、がんばること。

あれっ、

これって「がんばる」って言うのかなぁー。

「あそぶ」っていう表現に近いかも。