つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*比べることをしないでいるのは幸せ感のはじまり

最近なにかと話題のアドラーですが

なんとなく禅に似たところがあるのかなーなんて風に捉えています。

 

同じ アドラー関連の、とあるフレーズが気になった記事。

「わたしには幸せになる資格がない」

こんな感じに無意識に思っている方は

意外といらっしゃるかもしれません。

 

幸せになりたいけれども、なかなかなれなくて、

がんばってる、努力しているという感じでしょうか。

 

 もし「幸せになる資格」というものを作ってしまうと

ある条件を満たせば幸せになれるけれども、

そうでなければずーっと幸せではないことになります。

 

自我の「わたし」はどうしてもいまの自分と何かを比べて

ギャップを作りだして穴埋めをすることを

行動の動機にしがちです。

人並みや世間並みにとか、

お約束で

義務で、

最低限、

常識で、

これぐらいはとか、

よその子どもとウチの子どもとか、

理想、

目標、

あるべき姿とか、

よき社員、

よき経営者、

よき人とか、

などなど・・・

自我の「わたしの」のやり方というのは

かならず、なにかと比べて、

ギャップを無意識に押し付けておいて

これを何とかしろ、

がんばりなさい、

やりなさい、

埋めなさい、と追い立てます。

 

それをするのは別に問題はないのですが

ギャップを埋めることが動機(=燃料)になっている限りは、

どうでしょうか

なかなか人生の中で幸せ感を感じることは少ないです。

 

 

禅の大事な教えに「知足」があります。

この知足から行動するとどうでしょうか。

つまり、ギャップを作らずにそのままでよしとして

そこから行動したり、

目標に向かうのです。

 

「知足」の反対は、なにかというと「渇望」です。

いまがダメだから、こうしたい。

いまのままでは不十分だからこのようにして不足を補う、

というやり方です。

これは欲望になると同時に

次第に「渇望」にすり替わっていきます。

そうなると目標をクリアした途端に、

次のギャップをみつけ行動して、

また次、そのまた次・・・と

次々と障害物が現れてはクリアするかの如くになってしまい

なかなかゆっくりと

幸せ感を味わうことに結びつきにくいままです。

 

 

 

和顔(わがん) (山田無文老師説話集)

こちらから山田無文のことば

幸福というものは、

こちらから求めるものではなく、

向こうから与えられるものであります。

西洋の諺に、

「求めて得たものは快楽にすぎず、

求めずして与えられたものが幸福である」とありますが、

私どもは、求めなくても、

他から自然に与えられた幸福を

いただくようにならなければなりません。

  

なるほど、腹の減った時に飯を食べてああよかった、

楽しかった、幸せだったと、

それがご馳走であればあるほど生活が楽しいんだ、

そういうのを楽しんだと言って

人生に何かプラスをしたように考えるかもしれない。

しかしそのプラスは、腹が減って食わずにはおれん、

人のものを取ってでも食わずにはおれん、

そういうマイナスがあって、

よかったというプラスが出てきたのだから、

数学の公式でいったらプラス・マイナス、ゼロじゃないか。

何らの意味はない。

へっこんだところを埋めただけである。

欲望というへこんだところを

満足といって埋めただけである。 

 

つまり、マイナス(=ギャップ)を作らずに、

フラットから行動するということです。

フラットとは禅でいうところの「知足」であり、

まあ気に入らないところはいくつかあるとしても

充分である、

それでよし、

そのままで充分であるというところです。

この「知足」は自分自身に対してもそうですし

同時に自分と相対する相手や状況に対してもそうであり、

両方つまりすべてに対して「知足」、

このままで充分というところです。

 

思考だけでいると、

どうしてもギャップを作るやり方のみになります。

多くの方はこのやり方以外は習ったり知ることができません。

禅はすべてにおいて何も問題としない、です。

満足してなにもしないのではなく、

一旦フラットにしてから

つまり、ちょっとした心地よさや

まあでも色々あるけど「ありがたいなー」とか

「充分だなー」という感覚を感じるということをしてから、です。

少しゆっくりした時間をとったり、

ゆっくりと動作をすることや

息を意識的にゆっくり吐くこと、

からだの力をフーッと緩めることをする、

などすることで

自然にフラットなところに戻してくれます。

 

一旦そこで心地よさを感じて、

行動するならば多分ずっとラクであり、

ものごとも思いの外すーっと運ばれるように

流れていくようなことが起こるかもしれません。 

 

またフラットにできなかったときも、それも問題としません。

  

 

斎藤一人さんの「お金の真理」 

こちらにも興味深い、表現があります。

多くの人は問題が起こって、

それを解決したら「良かった」って思うんです。

でも私の場合だと、

問題が起こったらマイナスで、

それを解決したらプラスマイナスゼロになって、

「悩んだ分だけ損した」って思うんだよね。

   

 斎藤一人さんの本は趣味でほぼ9割以上読んでいますが、

 この本はかなりよかったと思います。

 いろんな分野で共通する

 原理原則的な王道があらかた網羅されている感じがします。

 

イヤなことが起きたとしても

まあ、これでも〇〇にならなくてよかった、

これで済んでよかった、

という意味合いで「ついてる、ついてる」と

例え思えなくても

言葉に出すことをしています、と述べられています。

 

これは、イヤなことがもしあったとしても

それでギャップ(=穴)を作ることをしない為に

やっていることなのだろうなーと思います。

 

 

禅でも共通するというか応用できる

こういったやり方というのは非常にシンプルで、とても強力です。

なのですが、いざ取り組んでみると

すっかり忘れていたり

わかっていても、

ついつい今までのクセののままになったりと、

頭で理解するのはカンタンなのですが

身につくというか、

からだに定着されるのは随分と時間がかかったりします。

それが禅でいうところの「行」にあたりです。

 

 

何かを比べてマイナスを作り、

その穴を埋めるやり方ではなくて、

いまのままでOKとか、

なんとなく感じる心地よさとか、

そういったマインドの判断ではないところのフラットなところ、

ここに戻るだけでも充分幸せです。

そして、

マイナスを作らずに目標なり、行動すること、

そういった習慣を身につけていくと、

どんなことが起きるのか、

それはぜひご自分でやってみて検証して試してみてほしいところです。

 

なにより基本のベースが違うので、

目標に取り組むにしても

義務感や、焦り、力みがなくなり

代わりに

軽さとか、楽しさとか、

嬉しさ、など感じられると思います。

 

どちらを選んでも問題はないですが、

確実にラクなのは後者です。

 

人のいうことは鵜呑みにせず、

ぜひご自身で検証されることをおすすめします。