つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

テキ(対立)をつくらなければ、すべては味方

わたし達のエゴ(自我)はなにかしようと思うのには

いまと違って、こうやればこうなるという目標や

こうなりたいけれどそうなれなくて、いまがイヤだから変えようとか

悪いところを良くしようというものがあります。

 

禅はすべてはこのままでカンペキにものごとが起こっているという

あるがままそのままが仏性のあらわれであるという教えです。

 

このすべてがカンペキであって

そのままが神なる表現というのは、

自我がまったくない無我の境地です。

 

つまり

起こるがまま、あるがままである、そのままという理解です。

 

「捨てる神あれば拾う神」といわれますが、

捨てるのも神拾うのも神であり、

ダメになるのも、よくなるのも神の表現です。

 

禅(仏教)では元々自我というものは存在しないという前提です。

 

般若心経にもあります「不生不滅」です。

生まれもしない、滅びることもない、です。

 

ありもしない自我というものがあるという思い込みがさまざまな苦難をもたらします。

 

その自我というものが本当にあるのかどうかをみていくと

「ない」ということが体験されたり

自我というものからほんの少しの間だとしても離れて忘れているときに

満たされたような、心地よい、平安のような、

ことばで表現できないような幸せ感を感じられたりします。

 

そこにはテキなどいない、孤立や分離もありません。

すべては味方という言い方もできますが、

実際テキがなければ味方もありません。

すべてが「自他一如」の世界です。

マヤでいうところの「インラケッチ」の世界ともいえます。

マヤの教えでは違いによって対立するのではなく、

違いを認め尊重し理解しあうことに重きをおきます。

 

自分と他人というものが、テキでもなく味方でもないとしたら

どんな感じがするでしょうか。

なにをするにも不安もなければ恐怖もないです。

起きたことはすべて、ありがとうという思いが膨らんでくるかもしれません。

 

エゴ(自我)のないところでは

いまがイヤでイヤでしょうがないというのは、ないです。

いまのままで満足なのです、

でもそれを変えたかったら変えようと行動を起こしてもいいんです。

それもあるがままです。

もしその結果がうまくいかなくても

それはそれでそのままで問題ない、あるがままです。

 

だから禅の「知足」というのは

禅の教えそのままであり、実践でもあり、到達するところでもあり、

易しい入口であり、最短で禅の教えそのものになる

やさしくて実践しやすいポイントです。

 

「知足」を目標にすると苦しみます。

ただ「知足」であったのだな~としみじみと味わうのが

もっとも身近でわかりやすい禅なのだと思います。

 

「知足」のコツというのがあります。

まずは、ほんの少しであっても足りているところを十分に感じ入ることです。

ないところばかり探すクセから

あるところをみつけていく、あるところに目を向けていく、ことです。

 

そうしたら、

その足りている感がさらに仲間を連れてきてくれたり、

足りている感覚がどんどん大きくなっていくみたいです。

 

足りているがわかりにくければ

ご自分がいちばんラクで手放しで心地よい感覚です。

人によってはきれいな景色をみた時だったり

人によっては身体が解けてゆるーくなっている時だったり

場合によっては忙しい合間に一杯のお茶を飲んでいる時だったり

自然のなかでゆっくりと深呼吸をしている時だったり

いろいろな場面でも違ってきます。

 

その人やそのときの場面なりの心地いいひと時を

たとえそれが1日1回であっても意識して大切に過ごすことで

のちのち大きな気づきとなることは間違いないです。