つながる 海と空とkumo

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところを記しています。わたし達は元来の幸せ感を忘れていることで不安やときに不満になり迷い続けます。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは禅ともつながっていて、さらに本当のしあわせにも通じる扉でもあります。

でてきた思考も感情もクセのようなもの

わたし達は知らず知らず自分の思考や感情というパターンのようなものと一緒に過ごしています。

その人のもつ遺伝子やDNAなのか、育った環境による因子なのか、仏教的には業なのか、状況においての大体のパターンのような反応の仕方があります。

なんとなくいつもイライラしている、

いつもクヨクヨしている、

大体ガッカリする傾向とか、

大体おもしろがる傾向とか、です。

そのときの思考のクセや感情のクセによって、その人がいつも過ごしやすい気分が大体決まるように思います。

これらの感情や思考の反応というのは、いわゆるクセ・習慣のようなものです。

 

例えば、こんな状況でこんなこと思っちゃいけないと思っても

やっぱり思ってしまいます。

眼の前の人の態度に対して、嫌っちゃいけないと思っても嫌いという反応が起こったりします。

それはどうしようもないことなのです。

それを変えようとすると苦しみます。

その起こった反応を、こうだといけないからこう変えようと

力づくで努力しようとすると
いろいろやるにも関わらずまったく変わりませんし苦しみます。

するとますます、迷宮に入ってしまいます。

 

思考も感情も、その人のもっている単なるクセです。

クセをいっぺんで変えようとすることは難しいです。

それには、日頃の意識の積み重ねと時間もかかります。

なので、そこでいつもどうしてこんな風に思うのだろうとか、問題視することはますます混乱を招きます。

 

思考や感情の反応のように、出てきたものはそのときに変えようとするよりは

あーこんな思考や感情があるのだなーと、ただ距離をおいてみてみることが

結果、変化していくことにつながります。

もしくは、変わらずとも気にならなくなります。

 

思考や感情のクセに対して、いちいちいいとか悪いと判断を加えないことです。

それは自分の思考や感情もそうですし、相手の思考や感情もそうです。

こんな風な反応もあるのだなーーーと、みていられるクセをつけていくことです。

なにも変えようとしないで、ただみていくことは「観」にもつながります。

 

 

坐禅をしているときに、

なにをしているかというと、

なにもしないで坐っているときに必ず思考がでてきます。

その思考をなにもしないで、ただ見送るということをしていきます。

大概坐って3分もしないうちに、なにか思考が浮かんでくるものです。

それを追いかけないで、ただ思考が湧いてくるままにしておくことが

坐禅の経験とともに、できるようになってきます。

 

できることがよくて、できないことが悪いのではありません。

 

坐禅というのは、「坐る」と漢字で書きますが

禅は一日のうち、なにかをしながら行っていくことも大切にしています。

 

これを続けていると

あれこれと思考をめぐらせて不安や混乱で疲弊してしまうクセから解放されたりします。

これは継続していくと体感できることと思います。

 

 

まとめ

出てきた思考や感情はクセである。

これは変えようとしないで、ただ出てきたなーと観ることで結果変わってしまう。

これではいけないと否定すると、よけいに捉われますので

ああーそうなんだなーというのがラクで、

いつの間にか変わってしまうやり方で

禅のメソッドと言い換えることができるかもしれません。

自我(エゴ)の問題解決というやり方においては、想像外になると思います。

 変わってもいいし、変わらなくてもいい、どちらでもOKといった姿勢が

ちょうどよいように変化を与えてくれるように思います。