つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*分離感が外れると

小学校に入学する前後の時期から、漠然と

本当の幸せについて思いを馳せていたような気がしますが

周りからみると、

かなり変わった子どもだったと思います。

 

苦しみ、困難、混乱、葛藤は、

多かれ少なかれ誰もが

人生のどこかのタイミングで味わうことです。

 

そこで、なにか間違っているのではないかと思ったり、

どうしてわたしがこんな目に遭うのかと恨みをもったり、

自問自答して、あれこれ試行錯誤していくわけなんですが、

そういった苦しみといったものは

すべてに共通している根底の土台があることに気づきます。

 

あるいは、なにか不足であっても

全部がすべて思うようにならなくても

幸せだな~と感じている方もいらっしゃいます。

 

 

それは、目にみえないところをことばで説明することになるのですが

大本というか源泉、大いなる存在、神なる存在・・・

日本であれば「おてんとうさま」がいつも見守っているといわれるような

「おてんとうさま」にあたるもの。

こういった呼び方はさまざまであり自由なのですが、

源泉から分離されている感覚というものが

不安や不幸せな感じ、

満足が得られない感じ、

孤独感だったり

こころ穏やかにいられない、

安らぐことができない、

辛い・・・に

つながっていきます。

 

要はなにが起こっていても

大いなる源のはからいが絶対の愛あるものだと確信ができれば

多くの不幸感が減ることと思います。

 

ただし大いなる源というのは目にみえませんから

わたし達はついつい目にみえるものを

しっかりとした拠りどころとして感じてしまい

現実の中で様々なものを自分の思うように変えていこうとします。

 

もしも、その現実のなかで

思うように人やお金ややりがいに満足が得られて

幸せだな~と感じられるようになったとしても

どうでしょうか

必ずといっていいほど、しばらくするその幸せ感は薄くなったり

思い出すのが難しいくらい忘れてしまったり

こんなはずじゃなかったと思うように変化したり

この幸せを保とうとするゆえに苦しんだり、します。

 

幸せを求めるあまり、かえって不幸になっちゃってる感じです。

これは典型的な左脳だけのパターンです。

 

そもそもなにが幸せかどうかというのは

その人自身が感じることであって、

その人しか決められないですし、

みえないところのものです。

 

その幸せというのは、

仏教でいうところの「諸行無常」といわれる

変化していくものではないです。

 

諸行無常である浮世にあって

失われない幸せというのは、「分離していない」というところの感覚です。

なにが起こったとしても

絶対安心という心地でいられるところです。

 

反対に幸せから遠ざかってしまうのが

「わたしが」という自我(エゴ)を主語とした行為であり、

「わたしの」という、自分のものにしようとするところです。

 

「わたしの」もの。

「わたしが」する。

この2つは、一見すると幸せに直結しているように思いますが

どんどん「わたし」を囲っていることになるので

その分ほど大いなる源との分離感がうまれてしまいます。

はんたいに

「わたしの」や「わたしが」という意識が少なくなれば

源とのつながりは保たれます。

「わたしが」「わたしの」を低くしていくと、源とつながりやすくなります。

 

わたしがとわたしのを少なくしていくやり方は、またの機会に。

 

 

幸せであるのは持ちものの多い少ないではないです。

少なくても幸せを感じている人もいますし、

多く持っても幸せになれない、

不足感ばかり募ってしまう人もいます。

 

「わたしの」ものにしようとすると苦しみます。

 

「すべては御心のままに」といった姿勢は

自分のものにしようとか、

自分がといったものではなく

執着がないので

ラク~で幸せでいられます。

 

ただしそれも人によって違います。

そう思えないのに、がんばって

「すべては御心のままに」にしてしまうのは本末転倒です。

そういった時は、

「そう思えないんだよねーーー」と執着しないで

軽ーーーく対応してください。

それができても、できなくても

すべてはそのままでOKという平穏な心地でいられることが

まさに「あるがまま」で

なにもしていない

手放しで十二分の幸せ感になっていきます。

 

 

自我の「わたし」があることが分離感につながります。

もともとない「わたし」というものを

あるように錯覚しているということが

分離感の始まりです。

頭の片隅にでもそれを忘れないでいることだけでも

なにか他の気づきにつながっていくことと思います。

 

 

 生まれた「わたし」があることが分離感の始まりともいえます。

 

分離感が外れると

元来すでに幸せであったことの気づきが起こります。