つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

自分の機嫌をとるというのは心地よさを感じることでもある

facebook斎藤一人さんの名言をチェックしているのですが

今日はこちらの内容でした。

 

戦争を起こす人や
人殺しをする人に
機嫌のいい人はひとりもいない。

みんなイライラしている

なまじ同情してね、
ちょっと構ってあげようなんてことを、
する必要はないです。

同情されたい人は、
抱きぐせのついた子どもとおなじ。
だれかが構ってくれると、
いつも思っている。

会社で社長の機嫌が悪かろうが、
部長の機嫌が悪かろうが、
自分だけはニコニコしていて下さい。

それで自分の機嫌をとっていればいいのです。

戦争を起こす人や人殺しをする人に、
機嫌のいい人はひとりもいない。
罪を犯す人もみんなイライラしている。

 

あなたが変わる315の言葉  337ページ

 

 

斎藤一人 あなたが変わる315の言葉

 

 

斎藤一人さんのことばは、
なにかにつけてヒントをもらえるものだなと思って
よく読んだりしています。

 

 

 

 

今日はこれを読んでふと思いましたのは、こんなことです。

 

 

坐禅や瞑想などでほんのちょっとでも心地よさを感じられたとき

不安やイライラや不満はなくなっています。

 

坐禅に限らず心地よさを感じるということが
一人さんのいうところの自分の機嫌をとることと
同じことだと思っています。

 

坐禅や瞑想を実践されている方は
その心地よさを感じることに試行錯誤や
ときには七転八倒しながら(坐禅や瞑想を)続けていくときもあるでしょう。

 


そこで大事なことは、ただ続けていくだけで

そこに心地よさがあろうとなかろうと

なんの問題もありません。

 


そしていま、心地よくても心地よくなくてもなんの問題もありません。

 


心地よくないけれども、そのままでよいのだな~

決して心地よいと思えないけれども、なにも問題がないのだな~


と思えるような平穏無事な心地が

わたし達が本当に求めている心地よさなのだろうと思うのです。

 

 

そこには思いを巡らせたり、思考を働かせるということがありません。

思考のでてくるちょっと前、

ウトウトしてなにか考えようともしないとき、

きれいな景色をみていて考えるのがもう面倒くさくなるようなとき、

ときにはホロ酔い気分のとき、

そのちょっとした間に感じられる、「間」の心地よさ。

 

それこそが本当の幸せの素になるものであり、

本当の幸せ感に触れているときです。

 

得たとか増えたとか思い通りになったとか、

そういった思考なく、

ただ空を眺めて、こころしずかになるような・・・

状況が変わったわけでもないのに

なんだか、ふぅーっと軽くなったような心地です。


いつでも十分にあるのですが、

思考を使ってみてみると足りないばかりに思えたりします。

 

感動したり

五感の感覚からなにか感じられたり

一息ついたり

お茶をゆっくりと飲んだり

そんな「間」にじつは潜んでいます。

 

どうでしょうか、

いままで見落としていたかもしれない「間」を

ちょっとみつけたくなりませんか。

 

わたしはそういうのをみつけたりするのが大好きです。

美味しいものを食べたり

景色のよいところへ出かけたり

空気感のよいところ

親しい友人との語らい

・・・・

他にもいろいろ。

 

昨夜は中秋の名月がまんまるで、しばらくずーっと眺めておりました。

 

 

しかし自分で作りだしたり、出かけていかなくても、

よくみてみると、向こうからちゃんと設定されていることがわかります。

望んでおらずとも、それ以上のものが用意されていることに

気づくだけです。

 

 

人生ってそんな風にみてみると

ホントにおもしろいものだなぁーと思います。