つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

思考を介さなければシアワセに甲乙はない

何かにつけて違いをみつけて指摘するのは思考の得意技です。

いきなり本題ですが

思考を介さなければ、しあわせだな~と感じられる感覚に優劣・甲乙はない。
ことについてです。

 

例えば、
コンビニでお気に入りのアイスカフェラテを選択して飲んでいるときの美味しいな~と感じる感覚と

海外旅行した先の一流ホテルのアフタヌーンティーを選択して紅茶を飲んでいるときの美味しいな~って感じることに

感覚においては、じつは実は大差ないです。

 

ところが思考を介すると途端に

後者はすばらしくしあわせであるけれども、
前者はお世辞にもしあわせとは言えない、ってことになります。

 

ではでは、本当にそうでしょうか。

お茶ひとつにしても、飲んでいるときに最初に
「あ~おいしいな~」というのは、あります。

そのときすぐに、比べるという思考が働きますが、
その思考が働かないひととき、
その思考が湧いてくるほんの少し前の瞬間(とき)は
あれがよくてこれがいまいちの「おいしい」ではなくて、
ただ「おいしい」という感覚があるだけのはずです。

そんなことはないなーと思われるとしたら
思考と感覚(五感)がどうもくっついている状態だと思います。

頭で作り上げる思考やイメージと、
しあわせがセットになっている「しあわせ」です。

感じることをあえてせずに
思考漬けでいると
いま食べたり飲んだりしているものの味も
じつは、よくわからなくなっていて、
舌で感じられる違いや匂いや味、
または風味などの感覚もほとんど感じることなく食べたりしているかもしれません。

 

例えばホテルのアフタヌーンティーの味が
ホントにすばらしく美味しかったとはっきり認識できるなら
感覚として味の違いやその他がハッキリと感じられてわかる結果だと思います。

でも、違いがあるにしても
そのほんのちょっと前にある「おいしい」という感覚に
違いはないはずです。
「あ~おいしいなぁー」という感覚があるだけです。

  

「おいしい」瞬間にいて、そこから離れることがなければ

もう「おいしい」だけですから、その瞬間(とき)に差はないはずです。

 

わたし達の自我は成長とともに思考を駆使して自由自在に操っていくことで

しあわせになろうとする性質があります。

 

その思考というものがない、
というところが本当にしあわせを実感できるスペースです。

それが「無」や「空」と通じるところでもあるのですが、

その「無」や「空」においても思考を使って会得しようとします。

 

本当のしあわせの感覚とは、
赤子のときのようななにも思わない先のしあわせです。

修行して得るものでもなければ、

なにかを捨てて得られるものではありません。

 

赤子のようなこころを思い出しさえすれば、感じられるものです。

得たものは必ず失われますが、もとからあるものは失われることがありません。

 

一休禅師のことばに
「幼子が次第しだいに智恵づきて仏に遠くなるぞ悲しき」
というのがあります。

智恵というのは思考のことですが、
大人になって賢く生きるため当たり前に習得していくのが思考です。

その思考というものが感じることや感覚というものを阻害しています。

そこで、思考を緩めたり、思考が緩まると
色んなことが感じられやすくなります。

つまり、考えることではなくて感じるということに意識を向け直すことをしますと

季節によって移り変わる空気の匂い、とか
空の青さの違いとか、
音楽を聴いても音色の感覚の違いとか、
なにか
まわりからの心地よさというようなものをキャッチしやすくなります。

 

そういった心地よい感覚を
日常の合い間に意識して感じてみることを約2カ月間続けると

以前と違った感覚というのが芽生え始めるようです。

細胞レベルでなにか変化があるそうです。

 

 

「無」や「空」になろうとするのではなくて
もとからあるところに戻りさえすればよいのだ、ということ。

もとからあるものなので失われることがない境地、仏性です。 

ほんのちょっとの時間でも
思考を介さないでいる時間をもってみること。

お手軽なのは、ゆっくりと味わうお茶の時間がイチオシですが

なにも考える必要なく、
からだや手を動かしていると
自然に心が落ち着くような
すっきりしてくるような
考えることから解放されるようなもの。

人によっては、無意識に好きでやっているものだったりします。

山登り、お遍路さん、ヨガ、マッサージ、散策、ダンス、

編み物、手芸、刺繍、

お料理、

音楽、

絵描き、塗り絵、

書道、などなど

それをすることで自然に思考が落ちてくるような、ものです。

思考が落ちてくると右脳の働きが優位になりやすくなります、
右脳が活性化されると同時に感じることにつながります。 

 

これらはよくみると
学校教育の学科としては、あまり重要視されず
取り入れられる時間も少なく評価されにくいものだったりします。

 

少し思考から離れたり、ウォーミングアップできたらその時に
坐禅や瞑想に入られるのもよいかと思います。

いきなり坐禅や瞑想は、むつかしいと感じられたら無理しないで
できるところから少しずつでも十分かもしれません。

じつは、この頑張らないでちょっとずつでも
続けるやり方は意外に早道だったりします。

思考はがんばって一度にたくさんのことをやろうとしますが
長期的には息切れしてしまいます。

 

息切れしない程度に取り入れて、味わっていくことに重きをおいていくと
疲れることがありません。

 

坐禅は、マラソンのランナーズハイと同じで、
最初はそうでもないですが、しばらく走ってみるとハイになるように
しばらく坐っていると、もう心地よくなってしまう
ということをいずれ経験されると思います。

いわゆる「三昧」といわれる境地です。
すると、また坐らずにおれなくなるかもしれません。

 

結果を期待しなければ、これほどラクなものはないかもしれないです。

しかしどうも思考のクセで結果を期待してしまいます。

こんなときには、どうしたらよいか。
いろいろとやってみると質問が出てくることと思います。

そのときの疑問に
ヒントになりそうなことをお答えできるだろうと思います。

しかし実際にやってみることがなにより大事で、
疑問がでてきても、答えを求めなければ勝手にこたえがやってくるかもしれません。

 

いま海外旅行や外に出かけられなくても、
ここが最高でしあわせなのだな~と
実感することができるようになるものだと思います。

ただし、いつなるか、どういう風になるか、なんてことは
誰も知らないし、知ることができない領域です。

思考で考えてもどうにもならないことは、
「知らな~い、わからな~い」としてお任せしきっていられることが
おおきな安らぎであり、安心しておれることでもあると思います。

 

前述の海外旅行は、決して否定しているものでもありません。

日常のフツウの生活の中で充分シアワセだな~と思えることに
たくさん触れている方が
たまに海外旅行にでかけて幸せを感じるよりは
はるかに数多くのしあわせな機会がありますよーん、ってことです。

行ってみたいところは、はるか遠くの地であっても
シアワセだな~っていう感覚は、いまここを離れずして
充分感じうることのできるものです。

また、日常のなかでシアワセだな~とか心地よさを感じたりしていると

海外旅行の折に、こんなに幸せだわ~っていうぐらい

シアワセ感を感じられることと思います。

 

 

長くなりましたので続きは、またの機会に・・・。

 

 

 


宇多田ヒカル - traveling