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つながる 海と空と青

禅と引き寄せと本来の幸せ感のリンクするところについて、思いついたまま描き記しています。元来の幸せ感を忘れているとわたし達は不安や不満になり迷い続けます。万人にもれなく備わっている本来の感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさがあるだけです。

「なにもない」が在る

ー 「なにもない」が在る ー

という感覚を

坐禅やなにかの折に感じることがあるかもしれません。

 

それは、名前のつけようがなく

触ることもできず

眼にはみえなくて

匂いもなく

ただ感覚でしか認識できない。

 

それが「無」とか「空」といわれる感覚です。

 

それはものでもないし、

ことばで説明することがむずかしい

感覚でしか認識することができない代物?です。

 

 

例えば交通事故に遭ったことのある方で

その瞬間というのは、時間のスピードがとてもゆっくりで

その時には恐怖や思考すら、なにもない

ほんの数秒・・・

その瞬間は「無」の体験です。

 

貧血で倒れたことのある方は、

意識がなくなって倒れる瞬間は「無」の体験です。

 

 

ガイアシンフォニー第一番で紹介された

イタリアの登山家、ラインホルト・メスナー

登山中に800m滑落した瞬間に

なんの恐怖もなかった、

ただ落ちている自分をみていたと後述しています。

 

 

 

その「無」とか「空」とよばれる感覚にすっぽり陥ると

人生観がまったく逆転してしまいます。

 

わたしと思っていたものが、

実はなかったということが感覚的に理解されてしまい

まったく世界観が変わってしまいます。

 

 

やがて

 

そのなにもない感覚がありつつ、

植物は成長し

日が昇り、小鳥がさえずり、樹々のざわめきがあり

人々の動きがあり

いままでみていた世界と同じ光景が

浮かび上がって、みえてくるようになります。

 

それは今までみていた世界と同じなのですが

違うのです。

 

なにもないという「無」の中で

活発に動いている様々ないのちの躍動です。

 

あー、樹が青々と茂ってなんとすばらしい。

 

あー、お店の人がいつものように怒鳴っている。すばらしい。

 

 

光景は変わらないのですが、

とってもリアルで、生き生きとしてみえます。

 

「柳は緑、花は紅」ということばそのもの。

道元の「眼横鼻直」(がんのうびちょく)のことば、そのものになります。

 

眼は横について、鼻はまっすぐにある。

いままでのあたり前であることが

深淵なるものの表現であったのだ。

修行をしてきたけれども、得るものはなにもなかった

「空手還郷」(くうしゅげんきょう)「眼横鼻直」

道元禅師のご生涯|曹洞宗について|曹洞宗近畿管区教化センター

さまざまなものはありのままであって、
なんて素晴らしいものであったのかという気づきが実感されます。

 

いいことがあってよかったのは自我にとってのよいこと。

悪いことがあって、辛かったのは自我にとっての悪いこと。

すべて自我からみたら、よいこと悪いことの判断しかないことが

「なにもない」からみたら、いいも悪いもなにもなかった

ありのまま、そのままが慈悲の表現であったということが

はっきりと理解されます。

 

 

なにが起こっていても

なにもないーという名前のつけようのない、

敢えていうと、「シアワセ」。

それがあるだけ、不動になります。

 

煩悩即菩提 - Wikipedia 」ということばがありますが

煩悩のあるそのままが浄土であるということが

感覚的に理解されます。

救われていないと思っていたのが、すでに救われていたのだ、

生きとし生けるものすべてが救われていて

あらゆる表現をしているだけなのだ、

ということが理解されます。 

 

いわゆる「不二」と呼ばれるもので

主体も客体もなく

主体と客体と名前をつけているだけで、

実は主体と客体の2つがあるのではない、ということも理解されます。

 

相対の見方から絶対の見方になってしまいます。

 

相対のしあわせと絶対のしあわせの違いです。

相対のしあわせとは、自我(凡夫)からみたしあわせ。

絶対のしあわせとは、なんにもないしあわせ、理由のないしあわせ。

感覚的な無限のしあわせです。

 

そこからみてみると

あらゆるできごとは、夢幻の様々な動きそのものです。

その儚い夢幻であるからこそ

大切に思えて仕方なくも感じられます。

 

その感覚こそが、なんともいえない心地よさとよんでいるものです。

 

知識や経験、意図するものや思考である左脳では決して理解できない領域ですが

左脳のない感覚的なところでは、

じつに味わい深くいつでも存在するものです。