つながる 海と空と kumo-nami

自我の「わたし」は思うとおりにならないことで悩んだり苦しんだり彷徨います。本来はしあわせ~な心地よさです。それはことばで表現することが追いつかない絶対的な感覚です。なんだか生きるのが辛くて5歳の頃から一度は出家して雲水になってみたいと思っていた風変わり女子がかく気まぐれエッセイブログです。

*「知足」は強力な引き寄せ

禅の教えのベースは「知足」です。

ーただ足ることを知るー

この「ただ」は禅をよく表していると思います。

 

目的もなく、

理由もなく、

いい悪いもなく、

行為する人もなく、

そういったところが「ただ」の真骨頂です。

 

 

「知足」というのは

頭脳明晰であればあるほど理解しがたいかもしれません。

 お釈迦さまの弟子の一人である舎利子( 舎利弗 - Wikipedia )は

 頭がよすぎたために

 なかなか悟りに気づくことができなかったので

 般若心経では

 その舎利子に説いて話しかける形式になっています。

 

ちょっと思考の線を何本かとばしてみたり

思考ではなくて感じるというところ(右脳)からですと

理解しやすいかなーと思います。

 

思考はないものをみつける性質があるので

いくら思考で「知足」を理解しようとしても

次はこれ、次はこれ・・といった感じで

多分いつまで経っても満足することができないです。

 

そこで、あーこんなこと思っちゃいけない。

充分なんだから満足に思わなくちゃ、

なーんていうささやきも

思考なのでスルーします。

 

あー満足してないんだなということに気づくこと。

これが大事です。

満足していないことに、いいも悪いもつけずに

ただ満足していないんだなーーーということをOKしてあげます。

すると

すーーーーっと満足することがよい悪いということから

離れることができます。

 

また人によって

満足できていないことに捉われてグルグルな場合は

満足していない自分をOKしてあげます。

またOKできなければ、

OKできない自分をOKしてあげます。

ようは、

できてもできなくても

できない自分もできてる自分も

OKできる自分もOKできない自分も

ぜんぶに同じように

いいとか悪いをつけずに気づくだけです。

ありのままをみていきます。

 これが観自在菩薩である観自在の「観」。

 つまり自由に真理を観る眼が開ける、です。

 

 

まとめてみると

たとえ自分が満足だといま思えなくても、

「まっいいか」と。

なにも問題ではありません。

 

さらに

たとえ、どんなに小さなことであっても、

あー充分だなーと心から思えたり心から感じられると

満足や充分や足りているという想念を

未来に送っていることになりますので

何カ月か何年か何十年後かわかりませんが

そういった状況を引き寄せることになります。

 

なので

禅がわかってからの「知足」ではかなりもったいないです。

 

禅を知らなくても、

禅がわからなくても

ちょっとした満足、

ちょっとした幸せだと感じられることや

なんだかありがたいのだなーとか、

感謝だな~とか、

閑(しずか)で心地よいな~とか、

あーシアワセだな~、など感じていると

いつの間にか、

状況は変わらなくてもラクでかなり幸せだということや

禅の道につながっていくことと思います。

 

また「知足」にいるときには

過去や未来を行ったり来たりということもなくなります。

一石二鳥どころか

一石何鳥にも匹敵するほどです。

 

ただし、くれぐれも

「知足」をすれば将来思うようなことが手に入る、

なーんて風に

駆け引きのないところで感じてみてくださいね。

もし駆け引きしても、

あー駆け引きしちゃったで問題ないです。

 

駆け引きをすればするほど

逆の引き寄せになってしまうことでしょうが、

それはそれでたのしんでみてください、

糧になりますから。(笑)

 

駆け引きしないは、

見落としがちですがかなり重要なところです。

 

そこでも「ただ」がつく「知足」になっていくほど

シンプルでラクで

いつの間にか理由はないけどなんだか幸せだわ~

という感じになることを確実に経験されることと思います。


もしかしたら、いうまでもなく

いまもう充分「しあわせ~~」かもしれないです~( ´艸`)