つながる 海と空とkumo-nami

禅や本来の幸せ感について記しています。わたし達は元来の幸せ感(ただ在る感覚)を忘れていることで不安や不満が起こりさ迷います。本来ある感覚の気づきは、しあわせ~な心地よさです。それは言葉で表現することが追いつかない絶対的な感覚です。 なんだか生きるの辛くて5歳くらいから一度は出家して雲水になってみたいと思っていた、ただの寺女子のブログです。

いまあるもので充分、いまないものも充分

禅を実践するなかで、目的や目標をもたないというように教えられます。

 

目的指向の自我(わたし)や思考や欲望といったものからすると

それでは一体生きている意味がないじゃないかという風になるのですね。

 

ところが

目的をもたない、目標をもたないというのも

いろいろと意味があって

目的や目標をもたないから、なにもしないというわけではありません。

やることは、やります。

そしてやって、できなくてもOK。

意訳すると、「目的とする結果に執着せずにやることはやる」というニュアンスです。

 

そして目的や目標といったものがなければ

坐禅にしかり、学問や知識を学ぶのだったり、探究や研鑽を重ねたり、研究したり、試行錯誤といったこともありませんから

それも違っています。

ですので道元は、「少欲知足」といったことばを残しています。

じぶんが本当に大事にしていること以外は、欲することを欲張らないという(渇愛しない)意味にもとれますし

ほんとうにやりたいことだけを決めて大事にするという意味にもとれます。

 

いずれにせよ

目的や目標といったことに縛られることがなければ

主体性というものが発動されますので

結果がどうであれ、プロセスにおいてもやりがいがあったりして愉しいですし

また

そのやるということそのもの、それだけで「じゅうぶん」だったり

いまあるものに目を向けやすくなりますから

自ずと禅の真髄である「知足」を感じられやすくなります。

 

いまあるもの、

そして

いまないもの。

そのどちらもが、それはそれで、本当に「じゅうぶん」なのだな~と感じられます。

 

これは自我(わたし)や思考や欲望といったものがあるところでは決して感じることができません。

思考の理解にとどまってしまって、感覚的に感じられるところまでは程遠いです。

 

そういった

思考の理解の上で、

さらに思考の理解を超えたところではじめて理解されるというのが

禅のおもしろいところでもあるな~と思います。

 

 

ことばで「じゅうぶん」と表現する前に

その「じゅうぶん」さを1秒でも味わい、

せっかくの「じゅうぶん」をことばに変換してしまわないということが

ちょっとした秘訣かもしれません。

寡黙でいて、「じゅうぶん」にいると

ほんとうに時間の感覚や感じられる感覚に変化があるかもしれません。

 

 

いまあるもの、それで「じゅうぶん」。

そして、いまないもの、それも「じゅうぶん」。

ということが、ことばではなく、感覚として感じられます。

 

結果として、その時は、いまこの場にまさしくいるということになります。